2月3日
2013年2月3日

「 快楽と愉悦にひそむ空虚 」

コヘレトの言葉 2:1-11 ; マルコによる福音書 10:17-22


「太陽の下で起こることはすべて空しい」と嘆くコヘレトは、空しさを見極めるた

めに人間の「快楽と愉悦」を身をもって体験し、そのうちに何があるかを確かめま

す。その結論は、「見よ、それは空しかった。笑いに対しては狂気だと言い、快楽

に対しては何になろうと言った。・・・目に望ましく映るものは何一つ拒まず、手

に入れるどのような労苦をもわたしは楽しんだ。それが労苦からわたしが得た分で

あった。しかしわたしは顧みた。見よ、それは空しく、風を追うようなことであっ

た」ということです。コヘレトの快楽実験のレパートリーは多彩です。酒で肉体を

刺激し、愚行に身を任せる、に始まり、庭園や果樹園の造成、森を育て灌漑をし、

多く男女の奴隷を使い、家畜を多数持ち、他の誰よりも多くの財産を手に入れる、

快楽と笑いを求めて大いに努力し、確かに快楽と愉悦をえることに成功しています。

コヘレトの求めた快楽には二つの特徴があります。その1は、我を忘れた自暴自棄

の快楽ではないということ。いわば、消費的な快楽、あるいは反社会的な暗い情熱

の喜びといったものではなく、生産的な喜びを求めているのです。私たちの社会の

表の顔の生産活動に類することを通して喜びと快楽を見出しています。また、その

2は、彼は快楽と愉悦を楽しんでいますが、その中に没頭しているのではありませ

ん。さまざまな喜びを経験しながら、その一方で覚めた目で、そのうちに何がある

かを確かめようとしているのです。酒と愚行のただなかにおいても、それを楽しむ

自分のありようをもう一つの目が見ています。そして、その快楽実験を通して十分

に楽しみ、それなりの「分」を得ており、その意義を認めています。しかし、楽しみ

や喜びがあると言うだけでは、「すべてが空しい」と言う結論を動かすことができな

い、これがコヘレトの空虚の感覚で、わたしたちも、その深みに共感できます。

「わたしたちはあなたに向けて造られていますので、あなたのうちに安らうまで、

真の安らぎはありません」と言うアウグスティヌスの祈りの言葉が思い起こされま

す。人が本当に喜びと充実、自由と平和を得るのは、自分の快楽と喜びだけでは足

りない、造り主なる神との生きた交わりを求めていることを証しています。神との

交わりも、他者のために生きることもなしに、自分の心に、自分のために、とひた

すら自分の喜びを求めるだけでは満たされないものがあります。

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