コヘレトの言葉 2:12-17 ; エフェソの信徒への手紙 5:6-20
コヘレトは知恵と知識を見極めて、どのように狂気であり愚かであるかについて 検証を重ねます。王として知恵に従って賢明に治める道と愚かさと狂気に従って治 める道とはどこが違うのか、こんな問いを掲げながら検証に及ぶのです。その結果 は、「光が闇にまさるように知恵は愚かさにまさる」で、当然、知恵にしたがって 治めることに軍配をあげます。「賢い者の目は頭に、愚かな者の歩みは闇に」とい うわけで、賢い支配者は一歩先のものが見えるし、愚かな支配者は闇の中を歩くよ うに闇雲に混乱の中を歩くことになる、どこかの国の支配者にも聞いてほしいよう な観察をしています。コヘレトはこのように知恵と知識の役割を認識していますか ら、反知性主義者ではありません。ルネサンス期人文主義者の旗手であったエラス ムスは「痴愚神礼讃」と言う書によって、当時権力を誇っていた教会や大学がいか に愚かでばかげた振る舞いをしているかを揶揄して、多くの人の喝采を得ました。 「愚神」の支配する世界のおかしさを描き出したのです。コヘレトの世界はこれと は違います。またゲーテの「ファウスト」は、この世のあらゆる学問を修め「よけ いな神学までも」一生懸命になって研究した結果、ちっとも賢くなっていないこと に気づいて、「魔術」の世界に没入し、悪魔に身をゆだねますが、コヘレトはこのよ うな逃げ道を選びません。知恵と知識によって成り立つ世界の有意義性と価値を認 めています。その上で、しかし、空しさの感覚から抜け出すことはできません。な ぜなら、「賢者にも愚者にも同じことが起こる」こと、つまり、死が同じように臨 むこと、また「賢者の愚者も永遠に記憶されることはない」、やがて忘れ去られて しまうからです。この死と忘却という現実に直面するとき、「わたしは生きること をいとう。太陽の下に起こることは何もかも空しく風を追うようなことだ」という おなじみの結論にいたるのです。コヘレトの眼中には、死にもさまざまな様相があ ること、死を越えた世界があること、復活の希望といったことはまったくありませ ん。きわめて近代的な感覚というべきでしょう。この空しさの感覚からどのように 生きる意義と喜びを見出してゆくか、現代人の課題です。「体も魂も地獄で滅ぼす 方を恐れよ」と主イエスは語られます。また、「今の時を生かして用いよ」と使徒 は語ります。この永遠から響き渡る御声を、どのように聞くかが課題です。
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