2月10日
2013年2月10日

「 知者と愚者の違いはどこに? 」

コヘレトの言葉 2:12-17 ; エフェソの信徒への手紙 5:6-20


 コヘレトは知恵と知識を見極めて、どのように狂気であり愚かであるかについて

検証を重ねます。王として知恵に従って賢明に治める道と愚かさと狂気に従って治

める道とはどこが違うのか、こんな問いを掲げながら検証に及ぶのです。その結果

は、「光が闇にまさるように知恵は愚かさにまさる」で、当然、知恵にしたがって

治めることに軍配をあげます。「賢い者の目は頭に、愚かな者の歩みは闇に」とい

うわけで、賢い支配者は一歩先のものが見えるし、愚かな支配者は闇の中を歩くよ

うに闇雲に混乱の中を歩くことになる、どこかの国の支配者にも聞いてほしいよう

な観察をしています。コヘレトはこのように知恵と知識の役割を認識していますか

ら、反知性主義者ではありません。ルネサンス期人文主義者の旗手であったエラス

ムスは「痴愚神礼讃」と言う書によって、当時権力を誇っていた教会や大学がいか

に愚かでばかげた振る舞いをしているかを揶揄して、多くの人の喝采を得ました。

「愚神」の支配する世界のおかしさを描き出したのです。コヘレトの世界はこれと

は違います。またゲーテの「ファウスト」は、この世のあらゆる学問を修め「よけ

いな神学までも」一生懸命になって研究した結果、ちっとも賢くなっていないこと

に気づいて、「魔術」の世界に没入し、悪魔に身をゆだねますが、コヘレトはこのよ

うな逃げ道を選びません。知恵と知識によって成り立つ世界の有意義性と価値を認

めています。その上で、しかし、空しさの感覚から抜け出すことはできません。な

ぜなら、「賢者にも愚者にも同じことが起こる」こと、つまり、死が同じように臨

むこと、また「賢者の愚者も永遠に記憶されることはない」、やがて忘れ去られて

しまうからです。この死と忘却という現実に直面するとき、「わたしは生きること

をいとう。太陽の下に起こることは何もかも空しく風を追うようなことだ」という

おなじみの結論にいたるのです。コヘレトの眼中には、死にもさまざまな様相があ

ること、死を越えた世界があること、復活の希望といったことはまったくありませ

ん。きわめて近代的な感覚というべきでしょう。この空しさの感覚からどのように

生きる意義と喜びを見出してゆくか、現代人の課題です。「体も魂も地獄で滅ぼす

方を恐れよ」と主イエスは語られます。また、「今の時を生かして用いよ」と使徒

は語ります。この永遠から響き渡る御声を、どのように聞くかが課題です。

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