コヘレトの言葉 2:18-26 ; フィリピの信徒への手紙 3:12-16
エルサレムの王コヘレトは「太陽の下でした人間の労苦の結果」について検証を重 ねます。その結論は、「見よ、どれも空しく風を追うようなことであった。太陽の 下に益となるものはない」というおなじみのもので、ここでも空しい、空しい、が 繰り返されます。その検証のあとをたどるうちに、なるほど、と思わせられます。 コヘレトが問題にするのは、どんなに労苦してよい結果を残したとしても、後を継 ぐものに残していかなければならないが、賢い跡継ぎを獲るにしても、愚かなもの にせよ、後の者を自分では選べない、ということです。また、「知恵と知識と技術 のが義理を尽くして得た結果を、何の労苦もしなかったものに遺産として与えなけ ればならない」、これもまた空しい、というわけです。わたしたちの日々の労苦は、 次の世代の幸福と平和のため、「子孫に美田を残す」ことをもって生きがいとする という生き方に対するみもふたもないニヒルな観察結果が語られます。「善人は孫 の代まで嗣業を残す。罪人の富は神に従う他の人のために蓄えられる」(箴言13 :32)という知恵に対して真っ向から挑むものとなっています。「人間が太陽の 下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生人の努めは痛みと悩み、 夜も心は休まらない。これまた空しいことだ」と嘆くのです。これらのコヘレトの 思いはきわめて自己中心的で、他者のために生きること、喜ぶ者と共に喜び、泣く 者と共に泣く、という姿勢は見られません。主イエスが世にいる弟子たちを愛して、 この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)という志もありません。「空しい」 というわたしたちもしばしば陥りやすいもおなじみの感覚の出所は、確かに、きわ めて自己中心的で、自分を捨てること、自分を与えることによって命を見出すこと を忘れたところにあることに気づかされます。 そのように労苦の結果の空しさの中から見出す楽しみとは、「人間にとって最も 良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること、しかもそれはわ たしの見たところでは、神の手からいただくもの」(24節)だというのです。こ こで語られる人生最高の喜び、ここで信じられ礼拝される神の、なんと浅く貧しい こと、と批評しているうちに、じつは、わたしたちの自己中心的な、自分を捨てる ことなく与えられることのみを願っている生きる姿勢がリアルに描き出されている のに気づかされます。
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