コヘレトの言葉 3:1-11 ; コリントの信徒への手紙二 6:1-10
「何事にも時があり、天の下の出来事には時がある。」ここで語られる言葉は、コ ヘレトの言葉の中で最も良く知られた言葉です。当たり前の事実に今さらのように 気づかされます。生きているものには時があります。生まれたときから死ぬ時まで の時を生きている。限られた時の間生きるものとして、今が何の時かを自覚するこ とへと促されるのです。コヘレトが教える時の自覚の仕方を確認しましょう。 コヘレトは「何事にも時がある」と言って、28のときを数えています。「生ま れるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、植えたものを抜くに時があ る。殺すに時があり、癒すに時がある・・・。」時の中を生きると言うことは、一 様に流れるときを生きるのではなく、さまざまな色とかたち、においと味のついた 時を生きるのです。しかも、ここにあげられた28のときはまったく対立する時と 対称的に並べられ14のペアになっています。「破壊するに時があり、建てるに時 がある。泣くに時があり、笑うに時がある・・・」のように。ここにコヘレトが訴 え、わたしたちの自覚を促す時の認識の強調点があります。生きる時と死ぬ時、笑 う時と泣く時、愛する時と憎む時などがペアになっているということは、どの時も その中で生きているものにとっては、生きることの全体を包む絶対的なもので、そ の中に没頭して生きているようでありながら、どの時も絶対的な不動の時などでは なく、変わってゆくもの、相対的なものだということを教えているのです。一人の 人のうちにも、さまざまな時があり、しかも全く対立するような時を生きると言う 不思議に気づかされます。このように時を自覚すると言うことは、わたしたちに何 をもたらすのか。コヘレトは「人が労苦したところで何になろう」と嘆いています。 時の中で生きるものは、時に支配され、時に流されていると言う、根源的な不自由 さの事実に目覚めて、嘆きをもらしているのです。 キリスト者の時の自覚と認識には全く別のものがあります。主イエス・キリスト の和解の福音にあずかり、和解の使者として生きる者の時の自覚です。「見よ、い まや恵みの時、今こそ救いの日」として、苦難と欠乏の中にも、喜びと希望に生き る時と捉えるのです。天の下で生きる者の時の認識と罪を贖う主、復活者の命にあ ずかって生きる者の時の認識の違い、が明らかにされます。
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