3月17日
2013年3月17日

「 神を畏れ敬うことと、労苦に満足すること 」

コヘレトの言葉 3:12-17 ; ルカによる福音書 12:22-34


「神が造られたすべてのものは、その時に適って美しい。その上、人の心に永遠を

思う思いを与えられた。ただし、人は神が造られたものを始めから終わりまで見る

ことはできない。」この真に深い信仰的洞察に続いて、コヘレトはさらに、二つの

「わたしは知るに至った」という言葉で、その洞察を発展させます。「人間にとっ

て最も幸福なのは喜び楽しんで一生を生きることだ」ということと、「すべて神の

業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」です。これらの

洞察が深く神を賛美し感謝する信仰的な深まりに向う発展なのか、人生はなんと空

しいことかと虚無を嘆くことに向っているのか、解釈の分かれるところで、コヘレ

トの言葉の中には揺れ動く心があります。この二つの「知るに至った」は、わたし

たち自身の生きる生き方、人生において選択すべき方向を指し示すもので、わたし

たちはどの方向をとるのかと問いかけられています。

 第一の、時に支配された人生の中で、その時々を精一杯楽しみ、飲み食いし、そ

の労苦によって満足することをもって最も幸福なこととする、これこそ神の賜物、

とする考えはコヘレトの言葉の中でしばしば出会う言葉です(2:24;3:12、14;5:17、

8:15)。時に抗い、自分の運命を呪い、社会の動きに逆らって生きるのではなく、

「神のなさることはすべて時に適って美しい」と、その時々の恵みを感謝して受け

いれ、今日の糧を与えられていることに満足して、主にゆだねて生きる生活、これ

こそ信仰の極意、独特の軽さとユーモアが感じられます。しかし、そのなかには独

特の諦めと投げやりの思いも感じられます。

 このコヘレトの言葉と主イエスが語られた、「命のことで何を食べようか…烏の

ことを考えて見なさい、…野原の花がどのように育つかを考えて見なさい。…あな

たがたの父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。ただ神の国

を求めなさい。」(ルカ12:22-32)と並べてみると、何を見ることができるでしょう。

ここには大きな発展があります。神の時の美しさを味わい、神のなさることの美し

さを見るには、ただ飲み食いの中に満足を見出すように努めるだけでなく、さらに

神の国を求めること、主イエスの招きと赦しの中で、神の時へと大きく解放される

ことがなければならないことを教えられます。

秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る