コヘレトの言葉 3:12-17 ; ルカによる福音書 12:22-34
「神が造られたすべてのものは、その時に適って美しい。その上、人の心に永遠を 思う思いを与えられた。ただし、人は神が造られたものを始めから終わりまで見る ことはできない。」この真に深い信仰的洞察に続いて、コヘレトはさらに、二つの 「わたしは知るに至った」という言葉で、その洞察を発展させます。「人間にとっ て最も幸福なのは喜び楽しんで一生を生きることだ」ということと、「すべて神の 業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」です。これらの 洞察が深く神を賛美し感謝する信仰的な深まりに向う発展なのか、人生はなんと空 しいことかと虚無を嘆くことに向っているのか、解釈の分かれるところで、コヘレ トの言葉の中には揺れ動く心があります。この二つの「知るに至った」は、わたし たち自身の生きる生き方、人生において選択すべき方向を指し示すもので、わたし たちはどの方向をとるのかと問いかけられています。 第一の、時に支配された人生の中で、その時々を精一杯楽しみ、飲み食いし、そ の労苦によって満足することをもって最も幸福なこととする、これこそ神の賜物、 とする考えはコヘレトの言葉の中でしばしば出会う言葉です(2:24;3:12、14;5:17、 8:15)。時に抗い、自分の運命を呪い、社会の動きに逆らって生きるのではなく、 「神のなさることはすべて時に適って美しい」と、その時々の恵みを感謝して受け いれ、今日の糧を与えられていることに満足して、主にゆだねて生きる生活、これ こそ信仰の極意、独特の軽さとユーモアが感じられます。しかし、そのなかには独 特の諦めと投げやりの思いも感じられます。 このコヘレトの言葉と主イエスが語られた、「命のことで何を食べようか…烏の ことを考えて見なさい、…野原の花がどのように育つかを考えて見なさい。…あな たがたの父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。ただ神の国 を求めなさい。」(ルカ12:22-32)と並べてみると、何を見ることができるでしょう。 ここには大きな発展があります。神の時の美しさを味わい、神のなさることの美し さを見るには、ただ飲み食いの中に満足を見出すように努めるだけでなく、さらに 神の国を求めること、主イエスの招きと赦しの中で、神の時へと大きく解放される ことがなければならないことを教えられます。
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