イザヤ書 50:4-11 ; フィリピの信徒への手紙 2:5-18
「キリストは神の身分でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、 かえって、自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間 の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でし た。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりま した・・・。」 この有名な「キリスト賛歌」に語り出されているキリストは、わたしたちが福音 書によって知らされる主イエスのゴルゴタへの道とはまったく異なる視点から描か れているのに気づかされます。裏切られ、捕えられ、祭司長、律法学者らのねたみ によって死にあたるものとの判決を受け、ローマ総督ピラトの優柔不断の無責任な 裁判によって、「十字架につけよ!」との民衆の叫びによって十字架の刑に処せられ た、このような受身の形で描かれた主イエスの十字架への道は、このキリスト賛歌 ではキリストの主体的な決意と行為として描かれています。神の身分(かたち・生 きる姿)として存在するキリストが、奴隷の身分・生き様となることを自ら引き受 け、自分自身を無にして低く貧しくなって、その強い意志によって従順を成し遂げ たと言うのです。そして、まさにこの低く貧しくなられたゆえに、神は高く引き上 げて、あらゆる名に勝るものとされ、キリストの栄光と権威の源となった、と。こ の二重の逆転こそ、キリスト教の信仰の奥義、キリスト者が依って立つ三位一体の 神に対する礼拝と奉仕の生活の根拠です。 キリストが僕の形を取られたということは、単に神が受肉し、人間になったと言 うことではありません。奴隷のかたち、人間としての尊厳や権利、存在価値を奪わ れ、貶められ、人間としての本来あるべき姿から最も遠くはなれた、堕ちた存在と なられた、ということです。罪のゆえに楽園から追放された人間のその悲惨さが集 約的に表されている人間の階層、そこに主イエスの生きる場があり、さらに、「十 字架の死」という奴隷の中でも最も悲惨な個別化され、失われた人間のかたちにま で、自らを貧しくし、無にして、従順を貫かれたのです。誰に対する従順なのか。 父である神に対して、また、罪人である私たち人間に対してです。そのキリストの 決意には、父に対する愛とわたしたち罪人にたいする愛とが息づいています。この 愛が、すべてを新しくするのです。
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