イザヤ書 65:17-25 ; 使徒言行録 10:34-43
使徒ペトロが、幻の中から神の声を聞いてカイサリアのローマの百人隊長コルネ リウスのところに赴き、語ったメッセージは、今日に至るまで教会でなされる説教 の原型、キリスト教の福音の基本の形(ケリグマ)を示しています。この中でペトロ はイエス・キリストの事実について二つの証言をしています。一つは、「イエスは 方々を巡り歩いて、人を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒された」 ということについてです。ガリラヤを中心とする主イエスの神の国の到来を告げる 宣教活動についての証言、そこでは、「聖霊と力によって油注がれた者とされまし た」とか、「神がご一緒だった」と語られるように、主の言葉と働きを身近に見聞 きして、そこで人間業とは思えない出来事に接して感じた驚きや感動が伝わってき ます。 しかし、ペトロの証言はここで終わりません。そのイエスが捕えられて十字架に つけられ、三日目に復活し、自分たちと一緒に飲み食いしたこと、この方を、神は 生きている者と死んだ者とを裁く方とし、この方を信じる者は誰でも罪を赦される」 と証言し、福音の中心的メッセージを明らかにしています。この証言によって、ぺ トロは自分がいかにしてキリストを信じる者になったかを語りませんが、主イエス に出会った生き生きとした経験がよく伝わってきます。「人々はイエスを木にかけ て殺してしまいましたが」と十字架の情景を語っていますが,その原意をさらに正確 に伝えると、「人々はイエスを拉致して、木に吊るした」という荒々しい言葉で、 そこには十字架の出来事に接したペトロの渦巻く感情を読み取ることが出来ます。 「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。・・・ イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたち・・・」という 表現で、同じ「復活」という語ですが、前者は「引き上げる」という他動詞、後者 は「よみがえる」という自動詞になっており、復活と言う事態が父と子の呼応する 出来事として記されていることに気づかされます。何よりも、この事実が「この方 を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」と証する方向に向か っていることに驚かされます。主イエスの事実がわたしたちの罪を暴き、神の裁き を下すのではなく、罪の赦しを告げる決定的な出来事として伝えられるのです。私 たちも、この福音にあずかっています。
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