4月7日
2013年4月7日

「 人間は動物に何らまさるものはない 」

コヘレトの言葉 3:16-22 ; マタイによる福音書 6:25-34


「太陽の下、さらにわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わ

たしはこうつぶやいた。正義を行う人も、悪人も、神は裁かれる。すべての出来事、

すべての行為には定められた時がある。人の子らに関しては、わたしはこうつぶや

いた。神が人間を試されるのは、人間に自分も動物に過ぎないことを見極めさせる

ためだ、と。」

 コヘレトはエルサレムの王、ダビデの子ですから、正義と公正によって国の秩序

を保つ責任のある人です。そのコヘレトが「裁きの座に悪が、正義の座に悪がある」

と見るだけではあまりに傍観者的、無責任な観察者と言わざるを得ません。この率

直な庶民的な観察はコヘレトの特徴としても、この観察から内省に向って展開する

論理の流れにはかなりの飛躍があります。裁きや正義の座に悪があるということ、

つまり社会的な不公正、不正義があってもそれが正されない状況に対して、コヘレ

トは、1)正しい者も悪人も、神は裁かれる。2)だから、すべての出来事、すべ

ての行為に時がある。3)人間は動物となんら変わるところがないことを示して、

神は人間を試される、と論理を発展させます。1)から2)、3)へと進んでゆく

必然性の筋道をどう辿ったらいいのでしょう。

1)は、神はわたしたちが期待するように、正義と公正の究極の審判者で悪には罰

を、善には祝福の報いを与えてくださる方ではなく、正しい者も悪人も裁かれる、

というのですから、人間が考える善人も悪人も、共に神の前で相対化され裁きの座

の前に立たなければならないということです。そこから、2)の「すべての出来事、

すべての行為に時がある」、というおなじみの言葉が出てきます。すべてが時にか

なって美しいのです。正義が正義として通る時代もあれば、悪が正義の顔をしてま

かり通るときもある、その両方の時に神の必然があり、その時こそ神が支配してお

られる。人間の歴史全体を大づかみにする視点へと進んでいます。そこから第3ス

テップ、「人間は動物となんら変わるところがない」というだけでなく、そのこと

を悟ることにおいて「神は人間を試している」ということに至るのです。神の形に

似せて造られ、すべて神が造られたものを治めるはずの人間が、動物と同じ息をす

るもの、塵から出て塵に帰るものであることを知って、思い上がりを戒めます。し

かし、神は人の心に永遠を思う心を与えられました。

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