コヘレトの言葉 4:1-6 ; マタイによる福音書 20:1-6
「わたしは改めて太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。三好得たげられる人の 涙を。彼らを慰める者はいない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者 はいない。」 ここにも、コヘレトの目に映る独特の世界があります。虐げられる者の涙、虐げ る者の手にある力、両者ともに、彼らを慰める者はいない、と観察し、生きている よりも死んだほうがましだ、いや、そもそも生まれなかった方がよいのだ、と世を はかなみます。ここで「虐げ」と訳されている言葉は旧約聖書によく出てくる言葉 で、抑圧する、とか、搾取する、虐待するなど、さまざまな言葉に解されます。権 力を持つものが持たない者に対して暴力的に振舞うことです。特に、やもめ、みな しご、寄留者、貧しい者に対して非人間的な振る舞いをすることに対して、これを 厳しく戒めるのは、旧約の基本原理です。コヘレトは人間世界の中にあるこの「虐 げ」の現実に目をむけ、そこに深い同情と痛みを覚えていますが、多くの預言者の ように、これに対して厳しく神の裁きが来ることを警告し、正義と公正に立って生 きるように戒めるのではありません。虐待される者の悲しい現実を見て、死んだほ うがましだ、と厭世的な気分に陥り、引きこもってしまうのです。また、虐げる側 の人間の心にある荒廃、だれも慰める者のない孤独にも共感しています。そこで立 ち止まってしまっています。不正義、不公正、差別の現実に連帯し、共に立ち上が り、この現実を変えることに向って大胆に行動すると言うことにならない、自分も 差別し、抑圧し、搾取する側の一人であることに気づくとき、何も出来なくなって いる心情はわたしたちにもよくわかります。そして、そのような搾取、差別の根底 にあるものは、「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃や しているだけだ」と見抜いています。「競争心」は「嫉妬」とも訳されます。深い 人間社会、深層心理の洞察です。コヘレトの感じる空しさは、わたしたちにもよく 理解することが出来ると共に、その観察の中途半端さ、いまだ究極の現実に到達し ていない現実認識であることにも気づかされます。神のみ子主イエスの人としての 歩みは、まさに虐げられている人となって失われた罪人を尋ね出し救う歩みでした。 ここに、神の目が注がれています。主にあって歩み始める者の立ち位置は、空しさ を感じる所に留まるものでありません。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る