出エジプト記 3:10 ; ヨハネによる福音書 5:1-18
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 「母の日」は、今生きているわたしたち一人ひとりが命のつながりの中に生きてい ることを思い起させられます。ただ生物学的につながっているだけでなく、養われ 養う生活の共同を通して、また、それだけでなく、愛と志、願いや祈りを共にする ことを通して、命のつながりの中に生きているのです。その絆なしには生きること は出来ません。わたしたちの主イエスも、天の父との命のつながりの中に生きてお られることを、このみ言葉は教えています。そして、主イエスはご自身の父と子の 交わりのうちに、わたしたちも加えてくださることを、その働きを通して示してお られるのです。 エルサレムの羊の門にあったベトザタの池のところに38年間も横たわっていた 病人を立ち上がらせ、歩き出させた主イエスの働きは、まさに天の父の働きを今に 伝えあらわす働きだ、と主は言われます。天の父の愛と願い、そのまなざしはどこ に、どのように注がれているのでしょうか。柱廊に囲まれたベトザタの池には、 「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわ っていた」と記されています。祭りの日の雑踏とは別の世界がここにはあります。 天使が降りてきて水を動かすとき、真っ先に水の中に入った人の病は癒されるとの、 あてにもならない噂を頼りに、大勢の人がそこにたむろしています。その中でも、 38年間も横たわっていた人の言葉はあわれです。「直りたいのか」との主の問い かけに、「主よ、水が動くときわたしを水の中に入れてくれる人がいないのです」 と答えています。何の見通しもない希望を胸に、その希望を達成するための誰の助 けも手段も持たないままに、38年という年月を過ごしていることが明らかにされ ます。命の絆が断たれているのです。主イエスは、大勢の助けを必要とする人の中 から唯一人、この人のところに近づき、この人に目をとめ、その心を聴き、「起き 上がり、床を取り上げて歩け」といわれて、真の命の回復、絆の回復を告げられま す。 しかし、問題はここで終わりません。この人を受けいれない世界、この癒しのゆ えに主イエスを殺そうと願う動きが出てきます。愛のない頑なな心、そこに主の生 涯をかけた戦いがあります。
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