コヘレトの言葉 6:1-6 ; マルコによる福音書 8:31-36
コヘレトは、富や財産、名誉が与えられても、それらを享受することができず、見 知らぬ他人がそれらを用いるようなことは大いなる不幸だと嘆きます。さらに、長寿 に恵まれ、多くの子孫に恵まれたとしても、それに満足することができなければ流産 の子のほうがのましだ、というのです。これはすぐ前のところで『神に与えられた短 い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ 幸福でよいことだ。それが人の受ける分だ』と語られたことと表裏のことです。こに には、確かに深い洞察が含まれています。富や財産、名誉、長寿、子宝、これらは旧 約聖書の示す神からの祝福の代表的なしるしです。しかし、コヘレトは、これらを手 にすることと、それを享受し満足するということは直結しないということ、折角手に した祝福を自らが享受することができないような事態があることを観察しています。 ということは、神からの祝福を得るためには、富や財産、長寿や子宝を得ることだけ でなく、それらのものを心から喜び満足する心をも神から与えられなければならない、 そうでなければ生まれなかったほうが良い、ということになります。確かにそうです。 しかし、疑問が残ります。コヘレトは先に(2:1〜11)彼自身はすべてのこの世の 楽しみ、労苦の結果に満足した上で、「見よ、どれも空しく風を追うようなことであ った」と語っていました。富や財産を得、それを精一杯享受し満足しても、なおそれ らのものでは完結しない満たされない何かがあることに気づいていたはずです。とす れば、ここで語られている幸福は暫定的な、究極以前の幸福に過ぎない、ということ になります。 新約聖書に目を向けると、富や財産や名誉といった外形的な祝福に加えて、それを 享受し満足する心を神に求めるよりも、わたしたちには『自分を捨て、自分の十字架 を負ってわたしに従いなさい』という驚くべき逆転の言葉、招きの言葉に出会わされ ます。『自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のた めに命を失うものは、それを救うのである』と。真の幸福はここに極まります。
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