コヘレトの言葉 7:15-22 ; フィリピの信徒への手紙 4:4-9
「この空しい人生の日々において、わたしはすべてを見た。義人はその義のゆえに破 滅し、悪人はその悪行のゆえに永らえることがあることを。」コヘレトの人の世を観 察する目はここでもまことに鋭く、また恐ろしくその裏側を見抜いています。人は正 しく生きることによってよい報いを受け、自由で幸福で平和な人生を送ることができ る。反対に、悪行を重ねるものは必ず裁きを受け破滅を招くという一般原則がここで は覆されています。勧善懲悪、因果応報の人生観は通用しないのです。このような世 界の見方から生じる生き方は、「正しさに過ぎてはならない。賢さにすぎてはならな い。どうして破滅してよいものか。悪事にすぎてはならない。愚かさにすぎてはなら ない。どうして時が来ないのに死んでよいものか」という警句になります。要するに、 過激を抑え、中庸を行くように、善でもなく悪でもない、ほどほどのところで生きる ようにということです。ここには知恵も知識も狂気であり、愚かであるにすぎないと いうコヘレトの基本の考えに基づくものであることは明らかです。 このような生き方は旧約の基本の考えとはかなり違います。旧約の基本は、「心を 尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」「あなた自身のようにあなたの隣 人を愛せよ」という律法の精神に従って、律法を守り、正しく生きるときに神からの 祝福があり、それに反するところには呪いと死があると、きわめて明瞭で中間領域は ありません。コヘレトの言葉はそれに対する異議申し立てでもあります。その根底に は、「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」(20節)という現 実認識があります。驚くべきことに、この言葉によって、旧約から新約への突破口が 開かれているのです。パウロがローマの信徒への手紙3:9〜20に描いている、「義人 はいない、一人もいない」と、すべての人が罪の下にある人間像を描いていることに 通じます。そこから主イエス・キリストを信じる信仰による義のことが語りだされる 前段階です。コヘレトは、神を畏れ敬うことと、人のいうことを気にしないことが大 切という平凡な結論にとどまっていますが、神の救いの計画は、この突破口から飛躍 的に展開して、神の御子の受肉と十字架の死と復活、そして昇天が説き起こされ、そ の神の救済の恵みにあずかる信仰の道が開かれてゆくのです。
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