コヘレトの言葉 7:23-29 ; エフェソの信徒への手紙 5:21-33
コヘレトは太陽の下で起こるすべてのことは空しいと嘆く言葉が繰り返されますが、 その嘆きのうちには、この世界を生き抜く真の知恵、真の命にいたる悟りを得たいと いう強い願いと情熱を感じます。今日のテキストで語られるのも、知恵を得、賢い生 き方をしたいと願いつつもそうではありえない「わたし」のありようがよく示されてい ます。 「わたしはこれらすべてを知恵によって捉え、賢くなろうと思ったが、これはわたし にはほど遠く近づきがたいことだ。いかに生きるべきかを問うことはあまりにも深く、 たずね極めることができず、これも近づきがたい。心を入れ替えて知恵とその帰結を 求めて得たことは、悪は愚かの極みであり、ばかばかしく、狂気だ、ということだ。」 コヘレトが求める知恵や賢さは科学的な知識や自然世界の理解ではありません。いか に生きるか、存在の本質を問う問いであり、その探求の旅は奥深く真理に到達するに はほど遠いと認識しています。「遠い」とか「深い」という言葉が印象に残ります。 一筋縄では捉えきれない人間性、生きることの不思議に向き合っている魂がここには あります。そこから導き出される処世術は意外に平凡です。悪を愚かなこととして避 ける生き方です。一方では「善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上には いない」という認識があって、善と悪とのわずかなバランスの中で善に傾き、悪を避 ける生き方、崩れやすく揺れてやまない現代風の生き方です。ここには「主を求めよ。 そして生きよ。善を求めよ、悪を求めるな」という預言者アモスのような決然たる生 き方はないのです。 その後に続く言葉は女性に対する警戒を呼びかける言葉で、「死よりも苦い女がい る」とか、「千人に一人という男はいたが、千人に一人という良い女は見出さなかっ た」と、いかにも男性中心的な言葉が続きます。男と女のどちらが賢いか、良いかと 争っても、何の益も、結果も出るわけではないと思いますが、コヘレトの達しえた結 論は、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがるというこ と」です。それはまさにその通り、ふさわしい助け手として与えられた男女の関係を、 愛し合い仕えあう関係から、自分の非を認めず、相手の非をなじりあう関係、責任を 転嫁する関係に変えている自分の心に気づくことが肝要です。
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