コヘレトの言葉 8:15-17 ; コロサイの信徒への手紙 3:12-17
「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。」コヘレトは太陽の下で行われるすべてのこ とを観察し、「今は人間が人間を支配して苦しみをもたらす時だ」とか、善人でありな がら悪人の業の報いを受けるものがあるかと思えば、悪人でありながら善人の業の報 いを受けるものがあるといった神の支配のうちにある不条理を感じて「なんと空しい ことか」とつぶやきますが、ここでは一転して快楽をたたえ、享受することを推奨し ます。「太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむこと以上の幸福はない。」と。 また、この言葉に続いて、「太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは人間にはで きない。人間がどんなに労苦し追求しても悟ることはできず、賢者がそれを知ったと 言おうとも、彼も悟っていない」という言葉があります。従って、「快楽をたたえる」 という言葉は、手放しで大いに人生を謳歌し愉快に快活に人生を送っている人の言葉 ではありません。大いなる空虚感と苦味を伴ったものです。コヘレトは2:1〜11 において、快楽と愉悦を試した結果は、「見よ、どれも空しく、風を追うようなこと であった」と言っています。すでに結論済みのことであるにもかかわらず、ここでは また「快楽をたたえる」ことに心を転じるのです。 コヘレトの推奨する人生を楽しむことの奨めは健康な生きる力の回復をもたらす知 恵があることは確かです。どんな悲しみや艱難の中にあっても、不平や不満漬けの毎 日を送るより、その時を神からの賜物として、その中に喜びや感謝すべきものがある ことを見つけて、そこに心を集めて生きることが出来る人は健康な人です。しかし、 この快楽主義は不健康な退廃主義と紙一重です。その快楽の中には世のすべての進歩 や努力をあざ笑うニヒルな心、現実逃避を秘めています。中毒と依存を起こす心です。 この「快楽をたたえる」は、両方向に向かう可能性があります。 空虚と不可知を悟った人間の快楽の奨めとはまったく違った種類の喜びの奨めが新 約聖書にはあります。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。 この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれてひとつの体とされたのです。 いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなた方のうちに豊かに宿るようにしな さい。知恵を尽くして互いに教え、、諭しあい、詩篇と賛歌と霊的な歌によって心か ら神に感謝しなさい」と。
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