8月18日
2013年8月18日

「 愛も憎しみも、人間は知らない 」

コヘレトの言葉 9:1-6 ; ローマの信徒への手紙 7:15-25


「わたしは心を尽くして次のことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼

らの働きは神の手の中にある。愛も憎しみも人間は知らない。」この言葉は二通りに

解釈できます。正しい人も賢い人も、人間の愛と憎しみの混然たる営みと実態を知る

ことはできないので、それを統御することはできないという意味にとることもできま

すし、神が何を愛し、何を嫌悪し裁かれるのかについて、その評価基準を見定めるこ

とができないと理解することもできます。前後の文脈からして、後者のほうが妥当な

読みだと思われます。すぐ後に、正しい人にも悪い人にも、清い人にも、穢れた人に

も、犠牲をささげる人にもささげない人にも、誓いを重んじる人にも、重んじない人

にも同じ運命が臨むと言って、神が人間の正しい行いを正しく評価し、ふさわしい報

いを与えてくださらない、信賞必罰のけじめがはっきりしないことを嘆いているから

です。コヘレトは、清めや汚れ、犠牲や誓いを問題にしているということは、特に宗

教生活、信仰と礼拝行為において、神を畏れ、戒めを守ることによって、それらのこ

とに無関心なものとの間に何か違いが生じるかと考えて、同じではないか、みんな同

じように死んでゆくだけではないかと観察しています。コヘレトのこのような疑問は、

わたしたちにとっても無縁ではありません。み言葉に従って生きること、教会生活を

することが本当にわたしの人生に幸福をもたらすのかと問い、確かな答えを得ないま

まで過ごしていることが多いのです。「太陽の下で起こるすべてのことの中で最も悪

いのは、誰にでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪

に満ち、思いは狂っていて、後は死ぬだけだ」とコヘレトは言います。なんとも後ろ

向きの人生観ですが、これを跳ね返す溌剌たる信仰者の生き方を示すことができるで

しょうか。その後に「犬でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ」との諺によって、

せめて生きてさえいればよいといいますが、その理由は「生きているものは…自分が

やがて死ぬということを知っているからだ」といいます。驚くべきことに、これらを

神の言葉としてわたしたちは聞きます。すなわち、主イエスが語り、知り、生き、味

わう人間の世界の現実なのです。パウロの、「死に定められたこの体から誰がわたし

を救ってくれるでしょうか」との叫びは、主イエス・キリストによって担われています。


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