コヘレトの言葉 9:7-12 ; エフェソの信徒への手紙 5:6-20
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの 業を神が受け入れて下さる。どのような時にも純白の衣を着て頭には香油を絶やすな。 太陽の下、与えられたむなしい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。そ れが太陽の下で労苦するあなたへの人生の労苦の報いなのだ。」 コヘレトは「せめて生きてさえいればまだ安心だ。犬でも生きていれば死んだ獅子よ りはましだ」という言葉に続いて、「さあ、行け」と心を奮い立たせて生きるべき方 向は、喜んでパンを食べ、気持ちよく酒を飲み、身だしなみを整え、おしゃれをして、 家では愛する妻と愛し合うこと、とにかく、今与えられている人生の楽しみを享受す ることです。このような人生の生き抜き方は、コヘレトの言葉の中にこれまでもしば しば出てきており、根本思想・通奏低音のようです (2:24〜26;3:12〜13,22;5:17〜19;7:14;8:14参照)。 これらの言葉に共通してあらわれる思想は、1)最高の満足を得るには飲み食いに 喜びを見出すべきだということ、2)それが空しい人生の中で人が享受することが 出来る唯一の避難所であること、3)「この満足と幸福は、神から人間に与えられ た賜物であり、「分・むくい」だということです。現代の豊かな社会の中に生きる 多くの人の人生観・幸福感そのものという感じで、説得力を持っています。しかし、 このような目の前にある現実を精一杯享受するようにとの人生観は、飲み食いを楽 しもうにも楽しめない貧しい人や病や障害の現実、老いてゆく現実とかかわって生 きることから頑なに目を背けて生きている生き方につながってゆくような危うさを 抱えています。豊かな社会になればなるほど人と人との距離は遠くなり、孤独が増 してゆくという現実をわたしたちは身をもって経験しています。問題は、「人間に 与えられた分」と「神からの賜物」とが並列されているところにあります。神から の賜物と受け止めることに徹すれば感謝とふさわしい応答が生じますが、自分に与 えられた分と受け止めれば権利の主張と、侵害に対する防御が生じ、二つのことは 相いれない生き方を生じることになるからです。太陽の下で生きるものは、その光 をくださったお方ご自身の思いに深く触れなければなりません。主イエス・キリスト を通して示された神の愛の光の中を歩まなければならないのです。「光の子として歩 みなさい」
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