イザヤ書 11:1-10 ; マタイによる福音書 3:1-12
福音書が記す通り、バプテスマのヨハネは荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づ いた」と語り、人々にバプテスマを施した人です。何故、荒れ野でなければならな かったのか、それは、預言者イザヤの預言、「荒れ野で呼ばわる者の声」を実現す るためというより、まずその場所で、ヨハネ自身がすべてのこの世的なかかわりを 退けて、神と向かい合い、神のみ心を問うことから始めた、ということです。ヨハ ネは「ラクダの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜とを食べ物としていた」 というのですから、衣・食・住すべてがこの世的な生活から切り離されています。 単独者として神の前に立ち、その御心を問う、そこで聞き取ったことを語り始める とき、だれもいないはずの荒れ野に、「エルサレム、ユダヤの全土から、また、ヨ ルダン川沿いの地方から」人々が集まって、その語ることに耳を傾け、進んでバプ テスマを受けるという事態になっているのです。命の言葉、福音が聞かれ、語られ るということは、まさにそのような事態であることを知らされます。 ヨハネの語る言葉は、荒々しく、激しく、厳しいものです。ファリサイ派やサド カイ派といったユダヤの指導者たちに対しても、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒 りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と容赦ありま せん。天の国が近づいていること、その時に備えて、神に立ち帰り、悔い改め、バ プテスマを受けねばならないことをリアルな切迫感をもって語っています。ヨハネ の語る天の国は、預言者イザヤによって語られた、主なる神が回復して下さるイス ラエルのイメージです。正義と公平が回復し、人間のおごりと高慢なふるまいに裁 きが下され、国々の争いがやみ、散らされた残りの民が帰還し、諸国の民と共に主 の山で神を賛美する時、その時『オオカミは小羊と宿り、豹は子山羊と共に伏す」 といった平和と和解が自然の世界にも広がります。その時は「わたしの後に来る方」 すなわちメシアの到来とともに来ることを語り告げるのです。 アドヴェントの時、主が来られる前に、その道備えをしたバプテスマのヨハネの 働きを思い起こして、わたしたちも義と平和の主の到来を告げ、ふさわしい心備え をしたいと思います。
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