エレミヤ書 31:7-14 ; エフェソの信徒への手紙 1:3-14
エフェソの信徒への手紙の冒頭にある神への賛美の祈りは、キリスト者とはどの ような存在であり、何を目的にして生きているものであるかを明らかに示していま す。それは、1)わたしたちは天地創造の前から神に選ばれ、イエス・キリストに よって神の子にしようと前もって定められた者であること、2)御子イエス・キリ ストによって、その血による贖い、罪の赦しを与えられた存在であること、3)更 に知恵と理解を増し加えて、天にあるもの地にあるすべてのものがキリストにあっ て一つになるという神の秘められた計画を知らせてくださっている者であり、それ によって神をたたえるためにあること、と、神の選びと予定、罪の赦しと贖い、神 の計画と目的が語られているのです。 特に第3の点、神はわたしたちを何のために選ばれ、また罪を赦し贖ってくださ ったのか、神の計画の目的は、すべてのものをキリストが頭となって一つになるた めだと語られていることをよく心に留めたいと思います。この計画は、「すべての 知恵と理解を増し加えることによって知ることができる計画」ですから、キリスト を知らないものや、信仰の初歩の者には理解できないことです。この目的に向かっ て生きるためには、わたしたちはもっと深みに向かって成長させていただかなけれ ばなりません。また、この計画は「神の秘められた計画、奥義」ですから、人間の 知識や期待にもとづいた将来像ではなく、神が計画し実現させてくださるものです。 それはキリストを通して実現させてくださるものですから、その奥義を知るために はキリストが何を求め何を実現されたのかを注視するところからしか悟り知ること はできません。さらに、キリストが頭となってすべてのものが一つにまとめられ、 充足と平和がもたらされるのは、「時が満ちるに及んで完成される計画」ですから、 人間の知識や理解、期待が想定した工程表に従って実現するものではなく、神の時 の中で、まさに満を持して、突然に、しかし確かな必然性をもって実現されます。 その実現は、何よりもキリストを頭とする教会のなかで始まり、現実になってゆく はずで、わたしたちはその時の中にいます。
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