1月19日
2014年1月19日

「 ただ一つの慰め 」

イザヤ書 46:3-13 ; ローマの信徒への手紙 8:26-39


 『ハイデルベルク信仰問答』の講解を始めます。この信仰問答(カテキズム)は

1563年、今から450年前にドイツのプァルツ侯国で出版されたものですが、現

在に至るまでヨーロッパやアメリカだけでなくアジアやアフリカでも世界の改革教会

で最も広く用いられているものです。日本でも明治の初めにドイツからの宣教師によ

って『海徳山問答』として翻訳されて以来、多くの翻訳があります。わたしたちの教

会でも受洗準備コースで用いていますので、多くの人にとってなじみの深いものだと

思います。カテキズムは古代教会よりキリスト教の信仰と生活の基礎を教えるための

テキストで、特に16世紀の宗教改革の時期に、当時のローマ・カトリック教会から

離れて、正しく聖書の信仰に立った教会の形成をはかるために数多くのカテキズムが

生み出されました。これによって次世代の若い人に信仰を伝えるという目的と、教会

の信仰の一致の基準を明確にするという目的を果たそうとしたのです。『ハイデルベ

ルク信仰問答』は、その大きな動きの中で、特にローマ教会から離れたプロテスタン

ト教会の中のルター派と改革派の聖餐理解の対立を融合させて穏健なキリスト教教理

を示していると言われます。

 問1「生きる時も、また、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」

 答:「それは、生きる時も、死ぬ時も、わたしの体にしても魂にしても、それらが

わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストのものとなっている、

ということです。・・・」

この問いと答えを通してキリスト教の信仰の深みに至る入口が示されていますが、キ

リスト教とは何か、とか、聖書は何を教えているかという客観的な情報を提供すると

ころからではなく、「あなたの慰めは何か」と「わたし」の心の根底への問いかけか

ら始まっていることに注視しなければなりません。生きる姿勢、死に向かう人生の中

でわたしは何を「慰め」としているかと問われます。キリスト者には答えがあります。

それは「わたしがわたしのものではなくキリストのものとなっている」と明確に答え

ることができる、まさに、ここにキリスト教の信仰の核心があります。単なる気慰め、

気晴らしでなく、死の現実にも耐え抜く「慰め」です。


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