エレミヤ書 17:1-11 ; ローマの信徒への手紙 3:9-20
ハイデルベルク信仰問答の第1部は「人間の罪と悲惨について」です。「生きる時 も死ぬ時も、ただ一つの慰め」である「わたしは主イエス・キリストのもの」という 確信に至るための第1の関門、それは、自分自身の、また人間全体の罪と悲惨、つま り、人間の暗部、深く閉ざされた人間の生の実態、正体不明の捉えがたい部分につい て、それの正体を明確にする作業です。 問:「あなたは何によって人間の悲惨さを認識しますか。」 答:「神の律法によってです。」 問:「神の律法はわたしたちに何を求めていますか。」 答:「・・・あなたは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力の限りあなたの 主である神を愛しなさい。・・・あなたの隣人を自分自身のように愛さなければなら ない・・・」 問:「あなたはこれらの戒めをすべて守ることができますか。」 答:「いいえ、できません。というのは、わたしは本性からして神とわたしの隣人を 憎む傾向があるからです。」 この信仰問答は驚くほどの速さと簡潔さで、人間の、いや、わたしの罪の核心に迫り ます。わたしたちの人生の中で悲惨さを認識するのは、悲惨な失敗や挫折の経験、病 や他者の非難、それらの結果の総合を通してではなく、わたしの神と人とに対する愛 の在り方にかかっていると教えられます。神と隣人とを憎む「傾向がある」という言 葉の原意は、低いほうに堕ちてゆく、〜しがちである、傾いている、ひざまづく、屈 する、といった意味で、起こった結果だけでなく生の姿勢全体のことを、そのように 表現しています。憎む傾向にあるのはわたしの本性に根差していると告白するのです。 神の戒めがわたしたちの悲惨を明るみに出すとして、二つの愛の戒めを示しています が、パウロはもっと複雑な仕方で神の律法と罪の関係があることを教えます。「むさ ぼるな」という戒めがあると、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼり をわたしの内に起こす」というのです。わたしたちは自らを省みて、そのように告白 することができるでしょうか。それができるなら、そこからキリストを得、聖霊によ って永遠の命を得ることに向かって道が開けます。
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