3月2日
2014年3月2日

「 罪 と 罰 」

申命記 30:1-4 ; ローマの信徒への手紙 1:18-32


 問8:「それではわたしたちはそれほど深く損なわれており、どんな良いことにも

    全く役に立たない駄目なもので、あらゆる悪に向かう傾向があるのですか?」

 答え:「その通りです。わたしたちが神の霊によってもう一度新しく生まれなけれ

    ば。」

 問9:「神は律法において人間に出来そうもないことを求めておられるとすれば、

    神のほうが人間に不正を行っているのではありませんか。」

 答え:「そうではありません。神はそのことを行えるものとして人間を創造なさっ

    たのです。けれども人間は悪魔の誘いに乗り、勝手気ままな不従順さによっ

    て、自らも、また、その後に続くすべての子孫からも、神からの賜物を奪い

    去ってしまったのです。」

聖書は神の救いの働きを語る場合、かならず人間の罪を露わにすることと緊密に結び

ついて語られます。出エジプトの出来事にしても、バビロン捕囚の出来事にしても、

決定的な神の介入がありますが、それを通して悔い改めと立ち帰りが起こり、外的な

救いと回復だけでなく、新しい心の創造が求められます。ハイデルベルク信仰問答の

第1部でも、人間の罪と悲惨それに対する神の怒りと裁きがどれほど私たちの一人一

人の中に浸透しているかについて、容赦のない言葉で指摘されます。神のほうが不正

だ、というような言い逃れを許さないのです。人間の罪をアダムにまで遡らせるのは、

罪の根源性、普遍性、連帯性を明らかにし、誰一人罪の現実を生きることから免れる

ことはできないことを明らかにします。

 どうしてそれほどに人間の罪を深く追求しなければならないのか、それは、神の御

子、主イエス・キリストによってもたらされた救いの根源性、普遍性、連帯性を明ら

かにするからです。主イエス・キリストによってわたしたちにもたらされる救いは、

わたしたちの不幸や災いからの手軽な救済を超えて、罪の現実そのものからの救いで

す。神の怒りは主イエスと十字架の死において露わになります。


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