3月9日
2014年3月9日

「 神の慈愛と峻厳 」

出エジプト記 34:1-6 ; ローマの信徒への手紙 3:21-28


『ハイデルベルク信仰問答』

 問11:神は憐れみ深いお方ではなかったのですか?

 答え:神は確かに憐み深いお方です。しかし、また、正しいお方でもあるのです。

    神の義は何にもまして高い神の尊厳に対して犯される罪も、また最も厳しい

    永遠の罰をもって、体も魂も罰することを求めるのです。

聖書は、人間の罪と悲惨にたいして神の裁きと罰と死があることを語ります。それら

のことを人間の弱さや運命的なものとはしないのです。また、人の迷惑にならなけれ

ば、あるいは誰からも文句を言われなかったら何をしても許されるというものでもな

い。人間は神に造られた存在であるゆえに、神の前で正しくあるかどうかによって、

本来の生き方となるか、それとも神に背き裁かれるべきものとなるかが決まると教え

ます。神の裁きや罰を意識するなどということは古い時代の考えで迷信的だと、その

ような観念を振り捨てて、人間の理性と良心に信頼して生きて行こうとするわたした

ちの時代にあって、神に背き、罪と死が支配するあらゆる現実がわたしたちの内にも

外にもあることは否定できません。

 神は恵み深く憐れみ深い方であるという面と、神は裁き、怒り、罰する方であると

いう二つの顔があることに対して、戸惑いをおぼえるのは当然です。しかし、この問

いと答えにあるように、神の人間の都合の良い面だけをとらえて、人間の願いだけを

かなえてくれる「機械仕掛けの神」とみるのは明らかに浅はかです。聖書には「あな

たはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である」(出

エジプト34:14)と語られます。神が人間の罪を裁かれるのは、ご自身の造られた者に

対する深い愛、愛してやまず、正しい関係のうちにとどまることを求めてやまない激

しい情熱によるものと教えられます。

 聖書の全体を見る時、神の正しい裁きと罰は、その本当の姿が示されるのは、人間

の災害や不幸や恐るべき死においてではなく、キリストの十字架の死において、神の

御子がわたしたちの罪の重荷を担ってくださっているという事実によって知ることに

なるのです。


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