7月13日
2014年7月13日

「キリスト者とは 」

申命記 6:4-15 ; 使徒言行録 11:19-30


『ハイデルベルク信仰問答』

 問32「どうしてあなたは”キリスト者“と呼ばれるのですか」

 答え:「わたしは信仰によってキリストの体の一部になり、それによってこの方に注

がれた油にあずかる者となるからです。わたしもこの方の名を信じ、告白し、自分の体

を生きた供え物としてささげ、この世にあって生きる生涯を捉われることのない確かな

良心をもって罪と悪魔と戦い、これから後はこの方と共にすべての被造物を永遠に治め

るものとなるためです。」

 主イエスがキリスト・油そそがれた者と呼ばれるのは、預言者、祭司、王の三職の職

務を聖霊によって果たすためであったという説明に続いて、キリストを主と信じ 主に

従う「わたし」がキリスト者と呼ばれる意味は何かと問われます。わたしもキリストの

体の一部となっているのですから、当然、キリストの三つの職務を担う者となると、キ

リスト者のこの世での生き方の基本が明示されます。

 使徒言行録にはイエスを信じる群れが最初に「キリスト者」と呼ばれるようになった

のは、アンティオキアの教会からで、ステファノの殉教によって散らされていった人々

が、その地でユダヤ人以外の人々にも主イエスの福音を告げ知らせ、最初の異邦人教会

が形成された、その教会からであったと伝えられています。殉教・異邦人との共同の交

わり・世界伝道の発進地、このような働きをしているアンティオケアの教会の働きを観

ていた人々が、この人々のことを「キリスト者」と呼ぶようになったのです。キリスト

者であるということは、ただキリストを信じ、罪の赦しと復活の命にあずかるだけでな

く、このような働きにおいて主イエス・キリストとつながる者となっていることを、わ

たしたちも深く自覚させられます。

 K・バルトは、「この問答はこの信仰告白の中で最も興味深いものの一つである」と

言って、特に、ここで「自由の良心−捉われることのない確かな良心」と語られている

ことに注目します。このことばが「自由・平等・博愛」という近代民主主義の基本とな

る思想の源流となった言葉であるからです。しかし、「この問答がこの信仰問答の告白

者たちによって少しでも正しく聞かれていたならば、後世、啓蒙時代 およびフランス

革命や他のいくつかの革命が自ずから不必要なものになったかもしれない」とバルトは

言います。今この信仰問答を聴くわたしたちへの問いかけ、警句でもあります。


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