8月3日
2014年8月3日

「イエス・キリスト、我らの主 」

エレミヤ書 1:4-13 ; ペトロの手紙一 1:17-25


『ハイデルベルク信仰問答』

 問34:「どうしてあなたはこの方を『わたしたちの主』と呼ぶのですか。」

 答え:「この方が金や銀によってではなく、その尊い血によってわたしたちの体と魂

を罪と悪魔のあらゆる力から解放し、ご自分のものとするために買い戻してくださった

からです。」

 使徒信条によって「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白する時、「我らの主」

と呼ぶことによって何が言い表されているかについて、時々、あえて問い直すことは必

要です。あまりにも無意識に流れていることが多いことが反省させられます。

 聖書には「主」という言葉がおびただしく出てきます。旧約聖書では「主」と表記さ

れているのは、神「ヤハウェ」の名を直接に呼ぶことを避けるために、「主」と書き換

えられていることが多く、従って、主は神のことを意味します。新約聖書では旧約の神

に対する呼び方をそのまま用いる場合(「主の天使」などと)、一般の意味で、「ブドウ

園の主人」や「主よ、憐れんでください」などと、支配者や尊敬すべき者、先生に対す

る呼び方として「主」が使われる場合もあります。しかし、新約でイエス・キリストに

対して「主」と呼ぶとき、主要な意味は、神として高められ礼拝されるべき方として意

識されていることに注意しなければなりません。ギリシャ・ローマの世界の皇帝や神々

に対して「主」と呼ばれていたことに対応しています。「イスラエルの全家は、はっき

り知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、

また、メシアとなさったのです」(使徒2:36)とペトロが主張している通りです。イエス

を主と呼ぶことは、その権威と栄光を認め、その主権は全世界に及ぶ者、畏敬すべきも

のとして崇めることを意味しますが、主であるイエス御自身はどのような「主」であっ

たかを思い起こさなければなりません。小さき者、貧しい者、病む者の友となられ、主

は僕の道を歩まれました。人々の罪を負って十字架の死に至るまで従順であられた主で

す。わたしたちが祈りにおいて、礼拝において、「わたしたちの主よ」と呼ぶとき、主

はもはや使徒たちや初代のキリスト者たちの主ではなく、わたしの主となり、わたした

ちも主の僕の道の歩みに従う者とされるのです。


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