8月17日
2014年8月17日

「苦しみを受け・・・ 」

イザヤ書 53:1-12 ; マタイによる福音書 20:20-28


 使徒信条を通して告白される主イエス・キリストについての信仰は、主イエスが聖霊

によりおとめマリアから生まれたことに続いて、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを

受け」と、直ちにその生涯の終わりのことに移っています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨ

ハネの福音書に記されている主イエスの言葉や行いには何も触れないで、その生涯の初

めと終わりだけが挙げられているのです。ハイデルベルク信仰問答では、問37で「苦

しみを受け」という小さい言葉がありますが、「これはどういう意味ですか?」という

問いに対して、「この方が地上での全生涯において、とりわけ、その生涯の終わりにお

いて、その体と魂ですべての世代の人間の罪に対する神の怒りを負われた、ということ

です・・・。」と答えて、主イエスの生涯全体が「苦しみを受ける」ことによって貫か

れていると理解しています。初代キリスト教会の関心の集中が、主イエスの十字架の死

と復活、昇天という驚くべき出来事に出会って、その出来事がわたしたちの救いとどの

ようにかかわるのか、神と人との歴史の中で何が起こったのかを解明することに向かっ

ていたことを伺わせます。この出来事を通して、人間の罪に対して神の側からの決定的

な処置がなされたことを聞き取って、そのことを信じ告白することがキリスト教信仰の

中心であることを表明しているのです。この初代キリスト教会からのキリスト・イエス

に対する関心の集中の仕方を深く学ばなければなりません。

 しかし、わたしたちは福音書を通して主イエスの人の子としての歩み、その言葉や行

いを知り、また主イエスがどこに赴き、どのような人と出会い、人々はどのようにふる

まったかなどを知ることによって、主イエスが身近な存在となり、まさに、わたしたち

の兄弟として歩んでくださる現実の姿に接することができるのも事実です。そのことに

よって、わたしたちの生き方や世界の見方を学び、何よりも、天の父としての神とどの

ように交わり、どのように祈るべきかを教えられます。主イエスに出会った人々は、神

から最も遠い人々も、まさに、新しい神の現実に目をさまされる経験をして「神の国は

近づいた」と語られる言葉の真実を味わったのです。


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