イザヤ書 53:3-5 ; ペトロの手紙一 2:18-25
ハイデルベルク信仰問答 問い38:「どうしてこの方は裁判官であるポンテオ・ピラトのもとで苦しまれた のですか?」 答え:「この方はこの世の裁きのもとでは断罪されるべき罪はありませんでしたが、 わたしたちのために、それによってわたしたちを神の厳しい裁きから免れさせるた めに、そうなさったのです。」 使徒信条では、主イエスの生涯、その生と死の全体の性格を印づけるために、「ポ ンテオ・ピラト」という人の名前を挙げています。主イエスの生涯の物語を知る者に は、「どうしてこの人の名前がそれほどに重要なものなのですか」という問いが先に なければならないように感じます。そこにはどのような初代教会からの神学的な考察 があるのでしょうか。 ポンテオ・ピラトはローマの総督、主イエスの時代のユダヤを支配していた最高権 力者で、主イエスの十字架刑の最終判決を下した人物ではありますが、どう見てもそ の思想・行動・人格は人類の模範となるべき人ではありません。十字架刑においても、 最後まで主イエスの無罪を確信して何とか死刑判決を避けようとさえしています。結 局民衆の声に負けて、良心に反して、無責任かつ日和見主義的に十字架刑へと引き渡 したのです。ユダヤの祭司長たちや律法学者、イスカリオテのユダなど主イエスの死 にもっと深くかかわった人物の名前ではなく、ピラトの名前が挙げられているのです。 ピラトの名前が憶えられるべき必然性は、主イエスの十字架の出来事が歴然たる世 界の歴史に刻まれるべき出来事だということをすべての人々に告げ知らせることにあ ります。主の十字架を通して起こったこと、超歴史的な神話の出来事ではなく、この 地上で現実に起こった出来事であり、そこで成し遂げられたことは、空想ではなく歴 史的な出来事です。独特の社会構造、政治状況のもとで起こった出来事であるという ことは、主によってわたしたちにもたらされる解放と救いも、それぞれの社会状況を 背景にしながら、現実のものとなることの証しです。そして、ポンテオ・ピラトの名 前を通して確認されるべきこと、それが、ハイデルベルク信仰問答によって明らかに されます。主イエスの死は、裁かれるべき罪はなかったにもかかわらず、神の裁きの 下にある「わたしたちのために」引き受けられた死であることが明らかになるためな のです。
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