9月14日
2014年9月14日

「 神の義と真理が求めるもの 」

詩篇 49:6-21 ; ローマの信徒への手紙 8:1-11


 ハイデルベルク信仰問答

 問40:「キリストはどうして死の苦しみを受けなければならなかったのですか?」
 
 答え:「それは、神の義と真実のゆえに、神の子の死による以外には、わたしたち

 の罪を償う道がなかったからです。」

 主イエス・キリストの十字架の死は「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ

た」死であり、死刑にされた死、無実の罪を着せられて殺された死であることは確か

です。しかし、また主イエスは、福音書によれば、十字架にかかられる前に3度も、

エルサレムで祭司長、律法学者らに殺され、三日目に復活することを予告されていま

した。さらに、複雑なのは、そのように自分の死を予告された主イエスは、淡々と死

への道を自ら歩まれたわけではなく、ゲツセマネでの「どうかこの杯をわたしから取

りのけてください」という祈りや、十字架上での「わが神、わが神、何故わたしをお

見捨てになったのですか」という苦悶の極みの祈りを聞くと、復活を見越した予定通

りの死というようなものでもなかったことが分かります。キリスト・イエスがどうし

て死ななければならなかったのかという問いは、その歴史的経過からは簡単に答えが

出てくるような問いではありません。聖書は、また、わたしたちの教会の信仰は、そ

れはわたしたちの罪を償うための神の必然と教え、受け取るのです。パウロは、ロー

マの信徒への手紙3:25、26に、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者

のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して神

の義をお示しになるためでした。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義

を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義

となさるためでした」と記しています。「主イエスの血」は二つの方向に向けた目的

と結果を果すものであった、というのです。神との関係で、神の義と真実を示し、罪

ある人との関係で、人を無償で義とする、と。別のところでは、「罪を取り除くため

に御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された

のです。それは、肉によってではなく霊に従って歩みわたしたちの内に、律法の要求

が満たされるためでした」と記されます。まさに、十字架は『神の義と愛の会えると

ころ』です。


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