マラキ書 3:19-24 ; フィリピの信徒への手紙 3:17-21
使徒信条の第二項、主イエス・キリストについての告白の最後は「かしこより来た りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」となっています。キリストの再臨と最 後の審判のことが語られているのです。最後の審判は、神の怒りの日、大いなる恐る べき日として恐れられ、またそれゆえに人類の歴史において放縦と堕落を防ぐ防波堤 のような役割を果してきました。現代人はこのような観念を払いのけて、終わりのな い繁栄を夢見て、その実はグローバルな破局に向かって突き進んでいるような様を呈 していますが、わたしたちが告白する信仰において語られるキリストの再臨と最後の 審判を信じることはどのような希望と慰めを得ることができるのかを確かに知ること が課題です。 使徒信条のキリスト告白の時間構造に注目すると、「主は聖霊によりて宿り」以下 「三日目に死人のうちよりよみがえり」までは過去のこと、「天に昇り全能の父なる 神の右に座したまえり」は現在のこと、そして、「かしこより来たりて、生ける者と 死ねるものとを裁きたまわん」は将来のことを表しています。すなわち、時間の中を 生きるわたしたちとキリストとのかかわり方の核となることがこれらの言葉によって 表されているのです。キリストの過去と現在がわたしたちの救いのために決定的な働 きをしているように、キリストの将来がわたしたちの究極の希望と慰めとなることは 確かです。確かな希望と慰めとなるカギは、最後の審判の時はキリストともに来る終 わりだというところにあります。それは「主の日」なのです。生ける者と死ねる者を 裁く方は、わたしたちの罪のために十字架にかかり、わたしたちの罪を自ら担ってそ の代価を払われた主イエスご自身です。その裁きは万物の回復をもたらす裁きです。 また、キリストの裁きの基準は、わたしたちの想定する基準ではありません。マタイ による福音書25章31以下に記されているように、「わたしの兄弟であるこの最も小さ い者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのである」という基準なのです。 「ハイデルベルク信仰問答」では、これによって与えられる慰めを「わたしがどんな 憂いや迫害にある時にも、頭を高く上げて、裁く方が天から来られるのを期待して待 つことができます。その裁く方は、自らをわたしのために神の裁きの前に投げ出し、 わたしに向けられたすべての呪いを取り除いてくれた方なのです」と答えています。
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