イザヤ書 64:1-11 ; コリントの信徒への手紙一 1:3-9
アドヴェントを迎え、クリスマスを待つわたしたちの心を整えるために、コリント の信徒への手紙の最初に記されている含蓄のある挨拶の言葉に注目したいと思います。 ここでパウロはコリントの信徒たちが、キリストに結ばれて、「キリストについての 証しがあなたがたの間で確かになったこと」と、その結果、「わたしたちの主イエス ・キリストの現れを待ち望んでいる」という教会の姿を現していることを取り上げて 感謝しているのです。この二つの方向、つまり、キリストについての証しが確立され るという、過去の出来事を想起する方向と、キリストの現れを待ち望むという将来に 向かう方向と、この二つの方向に向かって深められるということは、まさに、クリス マスに向かって心備えをするふさわしい作業であることに気づかされます。 キリストの証しが確かになっているということは、キリストを信じる者の信仰が強 くなり、伝道や奉仕に熱心になったということよりも、キリストを通して示された 神の恵みの御業、罪の赦しと贖いの恵みが確かになったということでしょう。しかし、 この挨拶の部分の後に続くコリントの信徒への手紙によれば、コリントの教会は未だ この点について多くの課題があったことを証ししています。確かにコリントの教会で は、キリストに結ばれて、「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊 かにされている」のですが、その豊かさが「わたしはパウロに」とか「わたしはアポ ロに、わたしはケファに」と分派争いと結びついていることを取り上げているのです。 キリストの証しが確立するということは、このような人間的な能力や力を誇ったり競 ったりすることから解放されて、「十字架の愚かさ」の内にある力に生きることでな ければなりません。 従って、「キリストの証し」が確立することは、どこでも、いつでも、教会にとっ て、また、キリスト者にとってその心と思いと生活を将来に向けるものでなければな りません。「キリストの現れを待つ」ということは、ただ最後の審判の時にキリスト が再臨されることだけでなく、もっと日常的に、聖霊によって主が共にいますという 経験と感覚を深めることを意味しています。なによりも、洗礼や聖餐にあずかること によって主イエス・キリストの現れを身近に感じることも含まれます。その時にわた したちも向かっています。
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