12月7日
2014年12月7日

「 荒れ野に道を備えよ 」

イザヤ書 40:1-11 ; マルコによる福音書 1:1-8


 「慰めよ、わたしの民を慰めよ」との語りかけに始まるイザヤ書40章の冒頭の言葉

は、ヘンデルが作曲した「メサイア」の最初に歌われるアリアの言葉として多くの人

の心に刻まれています。救い主メシアの到来とその生涯をうたうメサイア全体を導く

のにまことにふさわしい言葉です。イザヤ書は、この章から「第二イザヤ」と呼ばれ

るバビロニアの捕囚として異国に捉え移されたイスラエルの民に対して、解放と救い、

故国への帰還がもたらされることを預言する預言者の言葉が続きます。「苦役の時は

今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と

高らかに、長い捕囚生活に打ちのめされ、絶望することに慣れてしまった民に慰めと

希望の知らせを告げるのです。ここで語られる慰めと希望は、人間の側の期待や願望

に基づいて神からの慰めの布告が告げられたのではありません。それは神の決定によ

るものであり、神の会議での布告のようなものとして語りだされます。クリスマスの

物語がそうであるように、人間の時が満ちたから救い主が来るのではなく、神の時が

満ちてメシアの到来が告げられるのです。

 慰めの時の到来の布告に続いて語られるのは「荒れ野に道を備えよ」です。捕囚の

民がこぞって故国に帰還するためのハイウェイの建設が促されるのです。「谷はすべ

て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」

と。慰めが単に言葉だけの慰めではなく、神の解放、回復に向かうための道がなけれ

ばならない、と第二イザヤの預言には「道」に対する関心が明確です。

(42:15-16;43:16;48:17;49:11;51:10参照)

 しかし、このような上からの呼びかけ、慰めと解放の布告が告げられても、預言者

の心の内にあるつぶやきが聞こえてきます。「肉なるものは皆、草に等しい。永らえ

ても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたの

だ。この民は草に等しい。」人間の現実に深く触れ観察する預言者の心に広がる空虚

感はなんと深いことでしょう。

 しかし、上からの言葉はさらに続きます。「草は枯れ、花はしぼむが、神の言葉は

とこしえに立つ」と。枯れ、また、滅びる、まさにこの現実のただ中に神からの慰め

の「時」と「道」の到来の「よい知らせ」が告げられるのです。


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