12月14日
2014年12月14日

「 主の道をまっすぐにせよ 」

イザヤ書 61:1-4:8-11 ; ヨハネによる福音書 1:6-8:19-28


 クリスマスの時期に主イエスの誕生やその働きの初めを想い起こすと共に、主エス

の働きの先駆けとなったバプテスマのヨハネのことも想い起こされます。福音書はこ

ぞって、主イエスの働きが始まる前にバプテスマのヨハネが現れ、人々に神の国が近

づいている、と悔い改めを迫り、バプテスマを授けたこと、その働きは預言者イザヤ

の預言した「荒れ野に叫ぶ声、主の道を備える働き」であったことを告げています。

ヨハネによる福音書でも、ほかの福音書には記されていないことを知ることができま

す。しかし、ヨハネ福音書のヨハネについての報告の何よりも大きな特徴は、ヨハネ

のことを「神から遣わされた一人の人」として、その働きの偉大さ、その証言によっ

て「すべての人が信じるためである」とその証言の重さを強調するとともに、ヨハネ

の働きの限界性を強調することにあります。「彼は光ではなく、光について証しをす

るために来た」とか、ヨハネ自身が「わたしはメシアではない。わたしはエリアでは

ない。わたしはあの預言者ではない」と三重の否定を繰り返したうえで、「わたしは

水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中にはあなたがたの知らない方がおられる。

その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」

というのです。ヨハネの存在の大きさは同時代のどの宗教家たちの域をはるかに超え

る者であったことは確かです。「幾世紀以来イスラエルでは未だ聞いたことのない言

葉、すなわち天国についての明るい知識、悪に対する燃ゆるがごとき憎悪、堕落した

者を軽蔑しない深い憐れみ」は人々を惹きつけ、続々と洗礼を受ける者が荒れ野に押

し寄せたのです。しかし、ヨハネはそのような自分に与えられた特別な賜物や人々の

評価において造り上げられた自画像によって誇りと権威と資格において生きている人

ではありません。神からの賜物の大きさと深さにおいて自分が何者であるかを知ると

共に、自分が何者でないかを深く悟り、他の人に与えられている賜物をねたんだり否

定したり、その働きを阻んだりしないのです。ヨハネはそのことを悟り知るだけでな

く、その限界性において自分の後に来る者に対して深い期待とへりくだりとをもって

待ち望んでいる。まさに救い主を迎える道を自分自身の内に整え、また、そのことを

告げ知らせるのです。ヨハネとともに、わたしたちも道を整えて主を待ちましょう。


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