イザヤ書 9:1-6 ルカによる福音書 1:26-56
マリアを神の子の母となるべく呼び出し、マリアの心を開いて、そのみ言葉を受け 入れ、自ら進んでその大変な働きのために心と体をささげるようにするためにガブリ エルが用いた言葉はどんな言葉でしょう。「おめでとうマリア、恵まれた方。主があ なたと共におられる」(28節)。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵 みをいただいた」(30節)。「聖霊があなたに降り、いと高き力があなたを包む」 (35節)。「神にはできないことは何一つない」〈37節〉。もうお気づきでしょ う。マリアへの呼びかけは他の名前に置き換えれば、どこでも、誰でも同じ言葉によ って励まされ、励ましてきた言葉です。わたしも同じ言葉を聞いているのです。これ らの言葉には何の裏づけも保証もありません。ただ神様がこういわれる。神様が共に おられる、と言う約束であるだけです。驚くべきことに、マリアは、一途に、「わた しは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えて、神の計 画を一身に引き受けることへと歩みだします。空虚な何の保証もない言葉だと疑い、 躊躇し、引きこもるのではなく、約束を信じて生きることを喜ぶのです。「わたしの 魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主 のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたし を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから」と 歌っているとおりの信仰です。何と言う信仰でしょう。マリアは、ただ「主のはした め」である自分の貧しさや小ささ資格のなさを卑下しているだけの女性ではありませ ん。もっと大胆に、神の言葉の真実、神が共にいると言うことの現実、神に何でもで きないことはないという約束への信頼、それだけでなく、マリアには、神様は、自分 のように低いものを高く上げ、思い上がるものを打ち散らす、そのような配慮の中で、 わたしにご指名くださったのだという確信があることが後のマグニフィカートの中で 歌われています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何とさいわ いでしょう」とエリサベトが称えたのは、まさにそのとおりです。 このマリアへの「受胎告知」の物語はわたしたちの心にも目覚めを促します。神の み業のために呼び出されるのは、マリアだけではなく、わたしたちをそのみ業のため に呼び出し、わたしはあなたと共にいる。聖霊があなたに降り、いと高き力があなた を包む。神にはできないことは何一つない」と促し励ましてくださる方は今も働いて おられます。
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