申命記 7:6-11 ローマの信徒への手紙 12:1-8
教会が真のキリストの教会であるための最も古典的な標識として「一つの、聖なる、 公同の、使徒的な教会」という4つの標識がニケヤ信条で言い表されています。二番目 の標識「聖なる教会を信じる」ことについて、わたしたちはどのように認識し、実現し ているでしょうか。新約聖書には「イエス・キリストによって聖なる者とされた人々、 召されて聖なる者とされた人々へ」といった表現でキリスト者に呼びかけていますし、 「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく聖なる生活をさせるためです」 とか、「あなたがたの体を生きた聖なるいけにえとしてささげなさい」というように聖 性への招きがいたるところに出てきます。教会が聖なるものであり、キリスト者が聖と された者であるとは、どのようなことなのでしょう。 近代の社会は、聖なるものが人間の自由によって抑圧され冒涜されて、その冒涜と抑 圧が恐ろしいテロを生むといった出来事によって真の聖性が損なわれ、平和が脅かされ るという奇妙な事態に出会わされています。聖性の感性の回復は現代の世界的な課題で す。聖書でいう「聖」とは、分かれていること、特別なものという意味で、一般の通俗 的な生き方、人間の欲望にまかせた生き方ではなく、神の目に適うような汚れのない清 い生き方をすることが求められているのです。教会が聖なるものであり、キリスト者が 聖なる人々であると信じることは、そのような生き方を言葉と行動において実現してい るからではありません。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗わ れ、聖なる者とされ、義とされています」(1コリント6:11以下)に記されているように、 キリストの十字架の贖いによって聖なる者とされたものなのです。「先行的な愛と恩恵 による選びによって聖とされた者」と語られる通りです。キリスト者の聖性は、霊の導 きにより感謝の応答が結実したものとして表されます。この先行的な恵みを、思いと言 葉と行動においていかに実現してゆくかが課題です。 ではどのような生き方が聖なる生き方なのでしょうか。旧約の聖性と新約の聖性とは 大きく違っています。「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい・・・」 (コロサイ:12〜17)。新約の聖性はキリストの歩みに倣うことにかかっているのです。
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