3月1日
2015年3月1日

「使徒的な教会を信じる 」

創世記 12:1-4 コリントの信徒への手紙一 15:1-11


 教会が真のキリストの教会であるための最後の標識「使徒的な教会を信じる」という

信仰の告白について、どのように理解したらよいのでしょう。「使徒」とは、ギリシャ

語の“アポストロス”という言葉の翻訳で「遣わされた者」という意味です。主イエス

はガリラヤの宣教のときに12弟子を選ばれ、この12人を「使徒」と呼んで「自分の

そばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

(マルコ1:13以下)こと、この弟子たちが主イエスの宣教の歩みに立ち会い、十字

架の死を、その場から逃げ出しはしたが、確かに目撃し、復活の主に出会い、聖霊の注

ぎを受けて、「地の果てまでわたしの証人となる」との約束通り、立ち上がって、主イ

エスの出来事を証しし、罪の赦しの福音を宣べ伝えるために全世界に遣わされ、教会を

立てて行ったことは良く知られている通りです。その後パウロや主の兄弟ヤコブなども

使徒に加えられます。教会が使徒的であるということは、代々の教会がこの最初期の使

徒たちの信仰と生活、礼拝や祈り、サクラメント、宣教の使命と職務とを受け継ぎ、連

続性と同一性を持つものであることを認識すると共に、次の世代に向かって、その信仰

を受け継いでゆく責任があることを表明しています。わたしたちの信仰の起源が使徒に

あるというだけでなく、同じ教義の種子が蒔かれて、どの地域でも、どの時代にも主イ

エス・キリストの体としての実りを表して行くものであることを信じるのです。したが

って、「誰であれ、真理を欲する者はこの生命の水を汲むことができる。これは命の門

である。すべて他のものは泥棒であり強盗である」(エイレナイオス)と言われるように、

使徒の信仰と生活との連続性・同一性を持たない信仰、自己免許の信仰、異端は排除さ

れます。

 教会が「使徒的な」教会であるということは、特別な聖職者だけに課せられた指標で

はなく、主の教会に連なるすべてのキリスト者に与えられている祝福であり、また務め

でもあります。わたしたちの教会が「使徒的な教会」であるために、わたしたちが得て

いる祝福はどのようなものでしょう。また、わたしたちが使徒的な教会となるために、

どのような信仰と生き方を証しすべきでしょうか。聖霊がわたしたちを「使徒」として

用いる仕方はこの世の仕方とは違います。弱い者、貧しいものを敢えて用いて使徒とし、

その弱さの中に恵みを溢れさせるのです。


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