3月15日
2015年3月15日

「世が救われるために 」

民数記 21:4-9 ヨハネによる福音書 3:11-21


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人

も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このみことばは、「聖書の中の聖書」と

言われるほどこの一言で聖書の語る核心的なメッセージがあらわされています。レント

の時期に、独り子を与えるほどに世を愛された神の愛、自分の命を与えて罪人であるわ

たしたちを赦し、神との交わりを回復させてくださる主イエス・キリストの深い愛を覚

えて歩むことは真にふさわしいことです。

 あまりにも有名な言葉のゆえに、このみ言葉がファリサイ派の教師でユダヤ人の議員

であったニコデモと主イエスの対話の中から出てきた言葉であることを忘れていません

か。ニコデモは、夜に主イエスに会いにやってきて、「あなたは神から来た人だとわた

しは認めている」と称賛の言葉を告げますが、主イエスはそれに対して「新しく生まれ

なければ神の国を見ることはできない」と言うところから、「新しく生まれる」という

ことはどういうことかを巡って会話が交わされ、その帰結として、あの3章16節の言葉

となるのです。すなわち、新しく生まれて永遠の命を得ることができるのは、人の知性

や感性によるのではなく、神がお与えになった独り子を信じること、そこに示されてい

る神の愛の中に生きることに帰するというのです。

 この対話の中では、「独り子を信じる」ことを「モーセが荒れ野で蛇を上げた」旧約

の出来事と奇妙な例えによって、その独特の意義を明らかにしています。「荒れ野の蛇」

は出エジプトの時、カナンの地を目前にして神とモーセに向かって不信と不平にあふれ

かえった民に、神が「炎の蛇」を送られ、人々を咬ませ、多くの民が死んだので、モー

セは青銅で蛇の形を造って旗竿の先に掲げさせ、その蛇を見上げた者は死を免れた、と

いう出来事です。その出来事と独り子を信じることと何の関係があるのかと疑われます

が、その解き明かしはこうです。荒れ野で旗竿の先に掲げた青銅の蛇は、人々の犯した

罪を罰する道具として神から送られたもので、罪を思い起こさせる象徴であるとともに、

それを見上げる者がそれによって癒される象徴でもあります。ということは、主イエス

の十字架を予兆するものともなるということです。十字架はまさに人類の罪の象徴であ

ると共にそれを見上げる者に救いをもたらすからです。「独り子を信じる」ことは、十

字架の死によって罪を担ってくださった神の独り子を信じることなのです。


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