エレミヤ書 31:31-34 ヨハネによる福音書 12:20-33
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を 結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保 って永遠の命に至る。」 この主イエスの言葉は、植物が生命を受け継ぐ毎年当り前のように繰り返される不思 議な仕組みの中に、永遠の命に至る重要なヒントが隠されていることを教えています。 自己犠牲の生き方、与えてやまない生き方こそ、朽ちない命となってゆくことを教える すばらしい教えです。しかし、このみ言葉を一般的な人生訓として実行しようとすれば、 直ちに現実の壁にぶつかって立ち往生するか自己陶酔に陥るでしょう。これはまず、主 イエスが御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして語られた言葉として、主イエ ス・キリストの歩みから学ばなければなりません。 一粒の麦のたとえが語られたのは、主イエスの生涯において最も人々の賛美と称賛、 そして期待が高まった時でした。過越の祭のためにユダヤ全国のみならず離散のユダヤ 人たちが世界の各地からエルサレムに集まっている時に、主イエスはロバの子に乗って エルサレムに入城されました。人々は棕梠の葉を手に取って「ホサナ、ホサナ、主の御 名によって来られる方に祝福があるように。エルサレムの王に!!」と叫んで、王を迎 えるように歓迎したのです。敵対していたファリサイ派の人々は「見よ、何をしても無 駄だ。世を上げてあの男について行ったではないか」と嘆かせるような情景が直前に描 かれています。まさに勝利のキリストの像があります。その中でギリシャ人たちが主イ エスに遭いたいという願いがあって、そのことを知らされたときに、主イエスは「人の 子が栄光を受ける時が来た」といって、一粒の麦の話をされるのです。主イエスの栄光 の時は、人々から称賛され、イスラエルの王と称えられる時ではありません。ヨハネに よる福音書では、「栄光を受ける時」という言葉がここから後しばしば出てきますが、こ の言葉は特別な意味で使われています。それは明らかに、十字架刑に引き渡され、罪人 の一人として死ぬことを表しています。人々の期待する栄光の道とは正反対の道を示し ているのです。その死が「一粒の麦」のように、朽ちるべき命の中から朽ちることのない 永遠の命を生み出すものとなることを示しているのです。まず、一粒の麦としての主イ エスの死があって、その命にあずかってそこから、わたしに従いなさい、わたしのいる ところにあなたもいなさい、と勧められるのです。
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