詩篇 103:1-13 コリントの信徒への手紙二 5:16-21
『ハイデルベルク信仰問答』:問い56:「罪の赦しについてはどのように信じていま すか?」 答え:「神はキリストによって成し遂げられた償いの業のゆえに、わたしのすべての 罪に対しても、また、わたしが生涯戦わなければならない罪深い性格に対しても、もは や咎められることがないばかりか、キリストの無償の恵みとして、わたしたちに与えて くださることを信じるということです。従って、わたしはもはや決して裁きに遭うこと はないのです。」 使徒信条で告白する『罪の赦し』は、創造主である父なる神、十字架と復活によって わたしたちの救済者である御子イエス・キリスト、教会と聖徒の交わりを生み出し、命 を与える聖霊の三位一体の神が、現実的、具体的に、ほかならぬわたしと直接に結び合 う接点がここにあることを示すものです。したがって、罪の赦しを信じることは抽象的 ・観念的なものであってはなりません。K.バルトが「罪の赦しはキリスト者の生活の、 あるいは信仰と呼ばれうるものの土台であり、総体であり、すべてのものの基準である」 という通り、キリスト者の生活はここに始まり、ここに立ち帰ります。 罪は神から離反し自らを神として生きようとする的外れの心と行動を意味しますが、 罪には二つの種類のものがあることをハイデルベルクの信仰問答は教えています。アダ ム以来すべての人間が引き継いでいる性格的なものと、個々のわたしたちが生涯におい て戦い、また犯す罪です。そのすべてがキリストの償いの業に故に「もはや咎められる ことなく赦される」というのです。わたしたちの罪深い現実にキリストの無償の恵みの 業が立ち向い、罪と死の現実を打ち砕いてくださった、その事態がこのわたしのために 起こったのです。パウロはキリストの償いの業のことを「和解」という言葉で言い表し ます。和解は仲直りすることを意味しますが、ギリシャ語の原意には、変える、交換す るという意味が含まれています。和解は単なる仲直りではなく、わたしたちの罪と死の 法則に捉われている事態とキリストの恵みの業と復活の命が交換されて、主イエス・キ リストがわたしたちの罪と死を引き受け、わたしたちはその義と命にあずかる者へと変 えられたことによる「和解」です。宗教改革者たちはこの事態を「義の転嫁?という言 葉で説明しています。
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