5月10日
2015年5月10日

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝 」

イザヤ書 55:6-7 ヨハネによる福音書 15:1-17


 母の日には、わたしたちの教会では日曜学校や幼稚園の子どもたちや保護者も一緒に

集まって、母の日の歴史的な原点、教会の礼拝の場に立ち帰ります。母の日はすべての

人が母だけでなく父との関係においても命のつながりの中で生きていることを思い起こ

す機会です。衣食住、生きることのすべてにおいて、この命のつながりなしには誰も生

きることも成長することもできません。人としての人格の形成もこの命のつながりが深

く関わっています。この命のつながりの土台が不安定であれば、人としての心身の形成

にどこか欠陥を生じることも良く知られています。確かに、この命のつながりは、現実

にはどの年代においても、葛藤に満ち、一筋縄ではいきません。従って深い感謝の気持

ちをもって、この日に根源的な命のつながりを思い起こすことは、人間としてのふさわ

しい在り方に立ち帰る機会だと考えることができます。

 聖書は、主イエス・キリストとわたしたちの関係をぶどうの木とその枝との関係にた

とえました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしとつなが

っており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離

れては、あなたがたは何もできないからである。」と語られるのです。ぶどうの木とそ

の枝は、わたしたちの母や父と同じように、まさに、命のつながりの中で生きています。

しかし、主イエス・キリストとわたしたちの関係は、父や母、あるいはぶどうの木とそ

の枝のように目に見えるものではありません。主イエスは、「わたしにつながっていな

さい」と言われます。主イエスにつながるためにはどうしたらいいのでしょうか。三つ

のヒントが与えられています。「わたしの言葉があなたがたのうちにあるならば・・・」、

キリストとつながる、キリストのうちにとどまることは、主イエスの言葉を心に刻むこ

とです。次に、心に刻むべきキリストの言葉とは「父がわたしを愛されたように、わた

しもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。主イエ

スの言葉、それは、十字架と復活を通してわたしたちの罪を贖い、神と人との和解を告

げ、自由と解放をもたらす愛のきずなを結びます。さらに、キリストの愛の内にとどま

ることは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

と命じられます。キリストの愛の内にとどまることは静止的ではなく能動的、自己保存

的ではなく献身的なもの、与えるものです。


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