ハバクク書 2:1-4 ガラテヤの信徒への手紙 2: 15-21
使徒信条によって告白される、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊の三位一体の 神のわたしたちに対する救いの御業は、「ただひとえに、信仰によってのみ義とされる」 という信仰義認の教理によって、それがわたしたちの現実となることを教えます。「ハ イデルベルク信仰問答」の最も中核的な部分、問59〜64はこの教理の解説です。信 仰によってのみ義とされるとの信仰は、わたしたちのキリスト教の信仰の核心であり、 この確信のあるなしによって、教会も、わたしたちの信仰生活も立ちもし倒れもすると ころです。 信仰義認が語られ、信じられるためには前提があります。すなわち、律法の行いによ っては義とされない、という前提です。正しい行いを導くはずの律法が、わたしたちの 内にある罪によって実際には逆の働きをしてしまうというどうしようもない人間の罪の 現実を認めなければなりません。 また、信仰によってのみ義とされるという教えは、「イエス・キリストを信じる信仰 によってのみ」という限定がつかなければ、全く無謀な、なんの力もない教えとなりま す。信仰によってのみ義とされるのは、「わたしの信仰の力がそうさせるのではなく、 キリストの贖いと義と聖性とが神の御前でわたしを義とするのであって…」と語られて いる通りです。わたしを義とするのはわたしの信仰ではなくキリストの信仰によるので す。従って、わたしが罪人ではなくなったから義とされるのではなく、罪人でありつつ 義と認められるのです。 さらに、信仰によって義とされる信仰とは、愛の実行が伴ったときにはじめてまこと の信仰と認められるようなものではなく、ただキリストにおいて成し遂げられた贖いと 義と聖性とを「ただ素直に受け入れ、それによっておこる事態を信じる」ことに他なら ないことを認めなければなりません。そうでなければ、また元の律法主義の落とし穴に 陥ってしまいます。 信仰義認の教理は、したがって、自分自身により頼むことを捨てて、キリストのうち にあるものに心を寄せ、キリストのうちにある自分を見いだすことです。「わたしはキ リストとともに十字架につけられています。生きているのはもはやわたしではありませ ん。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」と信じることへと、聖霊によっ て導かれること、わたしたちはここに立っています。
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