5月24日
2015年5月24日

「罪から解放された者として 」

イザヤ書 64:3-8 ローマの信徒への手紙 6:1-14


 ハイデルベルク信仰問答」問い64:「このような教えは、勝手気ままな、始末のお

えない邪悪な人々を作り出すのではありませんか?

 答え:そうではありません。真の信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝

の実りを実らせないことなどありえないからです。

 この問答には、キリスト教の信仰の中心、わたしたちの救い、和解、新しい命は、わ

たしたちの行う正しい行いの実績いかんにかかっているのではなく、ただ主イエス・キ

リストによって成し遂げられた罪の贖いによって、そのことを心から信じることによっ

て与えられることを信じる「信仰義認の教え」を、感謝をもって受け入れ、その信仰の

うちに生きることをためらわせる人間的な思考が働いています。罪深い人間であるゆえ

に、神の善意に漬け込む危険があることを危惧しているのです。いや、自分自身により

頼むことを捨てて、一切をキリストのうちにあるものに心を寄せ、キリストのうちにあ

る自分を見いだすこと、聖霊によって「わたしはキリストと共に生きているのは十字架

につけられています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたし

のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:21)と告白して歩みを始めることにため

らう心、素直に従えない心情があらわされています。パウロはローマの信徒への手紙6

章に2度にわたって、「恵みが増すようにと罪にとどまるべきだろうか」(1節)、

「わたしたちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということ

でしょうか」(15節)と問いを起こして「決してそうではない」と激しく否定してい

ます。そのように否定したうえで、信仰義認の教えが実際に信じる者の心を変え、生活

を改変させる力となるために、何が力になるのかを明らかにしています。その決定的な

ものの第1は、洗礼というサクラメントにあります。キリストの死と復活の命に結び合

わされる、主が定められた手段です。第2は、「伝えられた教えの規範」(6:17)と

記されていること、そして、聖霊による執り成し(8:26〜30)です。これらによって、

揺るぐことのない神の愛がらわたしたちを引き離すことはないと約束されています。

「真の信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実りを実らせないことな

どありえない」根拠はここにあります。


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