エレミヤ書 31:31-34 ヨハネによる福音書 6:41-59
『ハイデルベルク信仰問答』では、聖礼典とは何かの解説に続いて、洗礼とは何かにつ いて問い69〜74で詳しく扱われます。サクラメントが「十字架において成し遂げら れたイエス・キリストの犠牲こそ私たちの救いの唯一の土台であることを信じる信仰に 導くもの」であれば、始まりのサクラメントである洗礼は、「外面的な洗いを通してご 自身の血と霊とをわたしたちの魂の汚れに確かに出会わせて下さる約束の保証と印」で あることが解き明かされています。 洗礼は、キリスト者としての信仰を表明し、キリスト教会への入会の儀式であり、洗 礼を受けているかいないかで、キリスト者であるか、ないかが決まります。洗礼は、従 って、キリスト者であるということは何であるか、どのように生きる者であるかを決定 する根本的な基準となります。聖書に記されている洗礼についての多くの記事を見ると、 いくつかの意味群にまとめられます。「罪を洗う、魂の汚れを洗い流す、罪の支配から 解放される」というように、水によって洗うという象徴行為の意味について語るもの、 また、「キリストの十字架によって、その死によって、キリストの血によって罪が赦さ れ、義とされ聖とされる」ことを強調するもの、これは小羊の血によって罪が赦される という旧約の祭儀と洗礼とを結びつけています。さらに、洗礼は「キリストと共に葬ら れ、キリストと共に死に、キリストの復活の命に合わせられ、古い命に死に、新しい命 に生まれ変わる」という深い意味が語られます。これらの意味を総合して、ハイデルベ ルク信仰問答では「ご自身の血と霊とをわたしの魂の汚れに確かに出会わせる、聖霊の 業である」と印象深く洗礼の意味を解き明かしています。 洗礼は、このようにキリストの命とわたしたちとを出会わせ、その無条件・無償の恵 みによって、罪を赦し、「新しい命に造り変えられる」人生の大転換を意味するととも に、キリストの体である教会に加えられること、キリストの体の肢体の一部につながれ ることでもあります。そのことが、聖書に書かれている出来事だけでなく、また、他の 人に起こることだけでなく、現実の教会の礼拝において、時と場所を定めて、実際的に、 現実的に、ひとり一人の「わたし」に起こる出来事であることを確認しなければなりま せん。
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