イザヤ書 9:1-16 コリントの信徒への手紙T 11:17-34
『ハイデルベルク信仰問答』 問い78:「それでは、パンとぶどう酒は真のキリストの体と血そのものなのですか ?」 答え:「そうではありません。洗礼の水がキリストの血に変るのではなく、また、罪 の洗い流しそのものではないのと同じように、それらは神聖なまことのしるし、また 保証なのです。従って、聖晩餐に用いられる聖なるパンはキリストの体そのものでは なく、サクラメントの本質と用法に従って、キリストの体と呼ばれるのです。」 聖晩餐は初代教会よりキリスト教の礼拝の中心として守られてきましたが、それをど のように理解すべきかについて多くの議論があったことも事実です。最も大きく意見が 分かれるのは、聖餐の時に語られる制定の言葉、「これはわたしの体である。…これは わたしの血である」との主イエスの言葉の「〜である」をどう理解するかをめぐってです。 ローマ・カトリック教会は、これを文字通り受け取って、ミサの度に司祭がパンとぶど う酒を奉献する時に、それらは実体的にキリストの体と血に変る(実体変化説)と主張し ます。これに対してプロテスタントの多くの教会は、パンとぶどう酒は、キリストが一 度限り成し遂げてくださった十字架によるあがないをしるしづけるもので、「サクラメ ントの本質と用法に従って」キリストの体と呼ばれる、と主張したのです。 一見迷信的に見えるローマ・カトリックの聖餐理解が出てくる背景には、コリントの 信徒の手紙11章に描かれているような聖餐の乱用が教会の中に起こることに対する警戒 があると思われます。そこでは、パウロが礼拝で「よい結果よりは悪い結果を招いてい る」と指摘するように、主の晩餐を食べる食事の在り方で仲間割れが生じているという のです。その実態は、「各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹な者がいるかと思 えば、酔っている者がいるという始末です」と、聖餐と普通の食事の混同、キリストの 死と復活の記念が中心ではなく、仲間同士の交友が中心になった集まりになっているの です。今日でも同じ過ちはプロテスタント教会の中にも起こりがちであるのは確かです。 肝心なことは、聖餐のしるしを通して、聖霊の働きによって、キリストの体と血にあず からせていただき、その苦難と死を覚え、生きたキリストに接ぎ木されることです。
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