出エジプト記 16:6-12 コリントの信徒への手紙T 11:17-37
『ハイデルベルク信仰問答』 問い81:「主の食卓に集うべき人はどのような人ですか?」 答え:「自ら自分が犯した罪を憎み嫌いながらも、そのような罪こそが取り除かれ、 そのほかの弱さもキリストの苦難と死によって覆われることを信じるものです。また、 信仰がますます強められて、更によい生き方をしようと心から願う者です。悔い改め ることのない者は、その飲み食いによって裁きを招くことになります。」 教会の礼拝で行われる聖餐をどのように理解するか、またどのように執行するかにつ いて激しい議論が繰り返され、また教派の分裂の原因ともなってきました。今日の日本 の教会においても、聖餐(主の食卓)にあずかるにふさわしいものは誰かという問題をめ ぐって争いがあります。ハイデルベルク信仰問答では、聖餐にあずかるのにふさわしい 資格、心構えの要点が説かれています。コリントの信徒への手紙でも、「ふさわしくな いままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、その飲み食いによって裁き を招くことになります。…主の体と血に対して罪を犯すことになります」(11:27-34)と 厳しく自らのふさわしさを点検するよう求めています。本来、主イエス・キリストが 与えてくださる窮極の恵みと祝福、賜物を感謝する聖餐において、裁きが行われるとい うのです。 そこで問われる「ふさわしさ」とは何かを考えるとき、主の体と血はどのような者に 差し出されているかを考えるところから出発しなければなりません。罪を犯したことの ない者、健康な人、正しい人のためには主の十字架は必要ありません。主の食卓に招か れる人は義人ではなく罪人なのです。しかし、単なる罪人ではありません。主イエスの 血によって赦され、贖われ、解放され、復活の命にあずかっている罪人です。洗礼はそ のことを公に告白するサクラメントです。主の食卓に集う者・キリスト者は、だれのた めに主は命を与えてくださったか、与えて下さらなければならなかったかを深く自覚す る者です。キリスト者の悔い改めは、自分の行為の善悪を自分の常識と時々の社会の基 準に合わせて判断することではなく、キリストの十字架の死と復活を必要としなければ ならない「わたし」であることを自覚するところから起こります。そのことをわきまえ なければ、キリストの体と血を犯すことになり、自分自身に対する裁きを飲み食いする ことになる」と警告されるのです。
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