4月24日
2016年4月24日

「御国が来ますように」

イザヤ書 35:1-10 コリントの信徒への手紙一 15:20-28


 主の祈りの第二の祈りは『御国が来ますように』です。わたしたちはこの祈りを何

千回も唱えていますが、どのような思いでこのように祈っているでしょう。『御国』

とは神の国、天国のことです。わたしたちはどのような神の国、天国を、期待し、祈

っているか、口先だけの言葉になっていないか反省させられます。主イエスの宣教に

しても、また、主の使徒たちや代々の教会の福音宣教にしても、「神の国は近づいた、

悔い改めて福音を信じなさい」と高らかに宣言することが中心的メッセージですから、

神の国についてのイメージが漠然としているなら、福音も何の意味もない空言にすぎ

なくなります。しかし、聖書の語る神の国は、現実のことなのか理想のことなのか、

死者の行くところなのか、現在生きている人が経験するものなのか、見えるものなの

か、見えないものなのか、漠然としていて捉えがたいところがあります。基本的なこ

ととして捉えていなければならないのは、神の国、天国は、神が支配している所、状

況ということで、地上的なもの、人間的なもの、悪魔的なものが支配している所や状

況ではないということです。ハイデルベルク信仰問答では、「あなたの言葉と御魂と

によって治めてください」と祈ることだと教えられます。それは何よりもわたしたち

の心のありように関わること、わたしたちの交わりのありように関わることだと主イ

エスは語られます。「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものではな

い。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20)、また、「神の国は

飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:7)

と。

 主イエス・キリストを通して解き明かされる神の国、天国は、当時のユダヤ教や、

またわたしたちの普通に考える天国とは大きく違っています。主イエスが教える神の

国は、ダビデの王国が回復され世界を支配する世になることでも、律法を正しく守っ

た者が死んだ後に行くところ、死者の楽園でもありません。それは「心の貧しい者」

や、「義のために迫害されている者」が手にしているものですし、また「子供のよう

に神の国を受け入れる人」

「子供のように自分を低くする人」でなければそこには入れません。自分のことを正

しいと思っている人より徴税人や娼婦の方が先にはいれる、というのです。何よりも、

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところ

に来ているのだ」と語られます。主イエス・キリストのおられるところにこそ神の国

があるのです。その生涯と死、復活を告げるところに天国の鍵があるのです。


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