9月11日
2016年9月11日

「神の建物としての教会」

ゼファニア書 1:14-18 コリントの信徒への手紙一 3:10-17


 パウロはキリストの教会を「神の畑、神の家」に例えて、その独特の性格を明らか

にしています。神の畑としては、「パウロは植え、アポロは水を注いだ、しかし成長

させてくださるのは神である」と、神の畑で育つものは奉仕者の共同作業によって成

り立つこと、それ以上に、育ててくださる神の働きが決定的であることを示して、人

間が互いに誇りの競争をし合うことを戒めています。

 では、「神の建物」としての教会から何を学ぶことができるでしょう。二つのこと

が教えられます。第1は、教会の土台はキリストであること、この土台の構築のため

にパウロが働いたこと、第2は、この土台の上に誰かが金、銀、宝石、木、草、わら

で家を建てる場合、おのおのの仕事は終わりの日に火で焼かれた後でその真価が問わ

れることです。教会を神の建物にたとえる場合に、パウロの例示する仕方は極めてユ

ニークでわたしたちの想像を超えています。その組織や構造のことを柱や壁にたとえ

て想起させ、それぞれの働きの重要さを教える通俗的なことでは全くないのです。

 教会の土台はキリストにあるということは比較的わかり易い例えだと思われますが、

その土台たるや、動かない不動のものではなく、昨日も、今日も、いつまでも、あな

たがた共に生きて働いておられるキリスト、十字架につけられ復活されて全能の父な

る神の右におられる主イエス・キリストなのです。このキリストとの絶えることのな

い生きた交わりです。神の建物としての教会は生きた土台の上にたてられて成長する

という思わぬイメージに発展します。第2のポイントはもっとユニークです。神の教

会の建物のクオリティーは、終末の日、すべてが火で焼き尽くされるとき、焼け残っ

た素材によって決まる、というのです。教会において営まれる礼拝、諸集会、人間の

交わり、交わされる言葉、その組織、権力構造、大きい教会、弱小教会、教会の政治

的・社会的影響力等々、この世に存在するキリストの教会の営みすべては、この世に

おいて何であるかではなく「かの日が火とともに現れ、その火がおのおのの仕事がど

んなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、

その人は報いを受けますが、燃えてしまえば損害を受けます。ただその人は、火の中

をくぐり抜けてきたもののように救われます」と謎のような言葉が語られるのです。

教会はどのような宣教の働きによって活性化を図るかが絶えざる課題ですが、今の仕

事は終わりの日に火によって燃やされるとき残る素材を用いた働きであるかどうかが

問われています。生きたキリストの土台としっかりと結びついてそこから命をいただ

かなければ、わらのように燃え尽きて何も残らないでしょう。


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