9月25日
2016年10月2日

「持っているもので頂かなかったものがあるか」

エレミヤ書 15:15-21 コリントの信徒への手紙一 4:6-13


 「わたしはパウロにつく、わたしはアポロに」と、党派争いをして誇りの競争をし

ているコリントの教会に対して、「だれも一人の人を持ち上げて、ほかの人をないが

しろにして高ぶることがないように」と、まるで子供に対するように戒めます。人間

の公平性、平等性は基本的人権の根本をなす近代社会の原則ですが、人間の社会の現

実はそれぞれの能力の優劣によって絶えざる葛藤があり、格差を克服できないのが自

然状態となっています。コリントの教会の中にも、それぞれの富、知識、家柄、権力

に従って階層化が生じていることをうかがい知ることができます。パウロはそのよう

な世界の生き方に対して、「ただの人」「肉の人」と呼んで、聖霊に導かれた世界では

ないといいます。

 格差の中に自分の誇りと生きがいを見いだしている生き方に対して、「あなたをほ

かのものたちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っている

もので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいた

だかなかったような顔をして高ぶるのですか」とパウロは問いかけます。この問いは

「肉の人」、「ただの人」であるわたしにもぐさりと胸に突き刺さります。それぞれ

の誇りの種を胸に、人を値踏みし、評価し、序列づける社会において、人を持ち上げ

たり、貶めて、自分の位置を見いだそうとしている、その原資となるものは、すべて

いただきもの、借り物、賜物であって、これだけは自分のものと言えるものなど何も

ないという事実を突きつけられるのです。この当たり前の現実に目をさまされて世界

を見るとき、わたしたちの生き方には二通りの生き方があることに気づかされます。

他者との比較において自分の誇りにしがみつき、自分の生きる位置と意義と目的を見

いだす生き方と、生きているすべてが賜物であり、これを感謝し、活かそうとする生

き方です。どちらの生き方を選ぶかによって見える世界は全く違ってきます。

 興味深いことに、決然と霊の賜物をいただいて感謝して生きる生き方とこの世的な

誇りにおいて生きる生き方とを、「あなたがた」すなわちコリントの教会の人々と

「わたしたち」すなわちキリストの使徒たちの生きる姿とを対比させて描いています。

「あなたがたはすでに満足し、すでに大金持ちになっており、…勝手に王様になって

います。…神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者とさ

れました。…私たちはキリストのために愚か者になっているが、あなたがたは賢い者

になっている・・・。」霊の賜物によって生きる者は、できあがったものではないの

です。


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