11月13日
2016年11月13日

「自律的共同体としての教会」

レビ記 22:31-33 コリントの信徒への手紙一 6:1-11


 コリントの教会の新しい牧会の課題は、「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争

いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人に訴え出るようなこ

とを、なぜするのです」という問題です。教会内で起こった仲間同士の争いを外部の

裁判に持ち出すようなことをしてはならないとパウロは厳しく戒めます。その理由は、

「聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あ

なたがたには些細な事件すら裁く力がないのですか」というのですから、キリストの

教会の聖性は世の正義を超えているもので、聖ならざる者、「正しくない者」、「信

仰のない者」、「教会では疎んじられている者」などの仲裁を受けるいわれはない、と

いうわけです。パウロは、「あなたがたは知らないのか」と何度も言って、この考え

はパウロの独りの考えではなく、キリスト者としての常識だ、と言わんばかりの勢い

でコリントの教会のふるまいを叱責しています。教会内部で起こった争いは教会内部

で解決すべきで、教会はそのような自律的な共同体でなければならないというのです。

 しかし、考えてみると、現実の教会は人を正しく裁いたり仲裁したりする責任能力

があるか、この世の裁きを行う専門家の専門性を超えてそのような聖なる務めを果た

すことができるのかは、大きな疑問です。教会の歴史を見ても、現実を見ても、偏り

に満ちた裁きと判断を下してきたのではないでしょうか。パウロももともとユダヤ教

のラビでユダヤの社会がどれほど律法によって秩序付けられているかをよく知ってい

ますし、ローマの市民権を持つものとして、その法的な地位によって秩序が保たれて

いることを熟知しています。教会の内部ではなく外部の法体系のほうが正当に、強力

に一人の人の権利と自由を保障することができることを知っており、その権利を実際

に行使しているのです。

では、どうしてパウロは教会の内部の争いは教会の内部で解決するようにと教えるの

でしょうか。教会の内部の恥を外部にさらさないためなのでしょうか。そうではなく、

外部の裁きの基準と内部の裁きの基準が全く違うからです。教会の内部の裁きの基準

はすべてキリストの法に照らします。わたしたちと同じ人となり、すべての人の罪を

負い、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活して、天に昇り、全能の神の右

に座し、生きている者と死んだ者を裁かれる、主イエス・キリスト、その真実と愛、

正義と執り成し、赦しと命の約束に照らして裁きと仲裁が行われるはずだからです。

罪を罪として処罰し懲戒と死をもたらす脅威と権力によってもたらされる裁きではな

いからです。キリストの歩みとキリストによって成し遂げられた成果に与らない共同

体の関係と秩序はないことを教えられます。


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