12月4日
2016年12月11日

「荒れ地よ、喜び躍れ」

イザヤ書 35:1-10 マタイによる福音書 11:2-11


 バプテスマのヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫ぶ荒れ野からの声は、

主イエス・キリストの先駆けとなり、道備えとなりました。ヨハネの証言者としての

働きは、時を隔ててもう一度福音書に記されています。牢獄の中から二人の弟子を主

イエスのところに遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方

を待たねばなりませんか」と問わせたという出来事があったのです。ヨハネはヘロデ

王の道ならぬ行為を戒めたことによって王の怒りを買い、死海の東にあるマケラスの

牢獄につながれていました。やがてヘロデ王が催した宴会の座興に供され、あえなく

首をはねられ、その生涯を終えます。ヨハネの問いはこの牢獄の中からの問いです。

この問いを発した人、時、場の重さ、緊急性はきわめて大きい。自らに死の時が迫っ

ていることを知りながら、彼自身が生涯をかけて語って来た宣教の言葉が真に意味の

ある確かな言葉であったかどうかを確かめる実存をかけた問いです。ヨハネは自分自

身の宣教の働きが神の時の途上の働きであり最後の働きとは考えていませんでした。

「わたしの後に来る方は私よりも優れた方で、わたしはその方の履物をお脱がせする

値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語っていた

ことが思い出されます。

 なぜヨハネは「来るべき方はあなたでしょうか」と主イエスに問わなければならな

かったのでしょうか。それは預言者の、いや人間の限界性と深くかかわっていると思

います。ヨハネの預言者的な時代を切り取る鋭い感性、燃える信仰をもってしても、

彼の語りうることは一時的・部分的な事象にすぎません。また、彼が知りうる情報も

一時的・断片的な出来事の羅列です。その出来事の中で何が究極のことで、何が究極

以前のことであるかを判断するのは、わずかな印と聖霊の導きによってです。ヨハネ

は牢獄の中で主イエスのことについて得る情報と判断はこのような限界性の中に置か

れています。自分の後に来る自分より優れた者について語ったとしても、実際にその

方との確かな出会い、つながりの中で自分の生涯を終えることができるのか、それと

も未だなお待つべき途上での死となるのか、ヨハネはこの確証を求めて主イエスに問

いかけているのです。

 主イエスの答えは「行って、ヨハネに聞いたこと見たことを伝えなさい。目の見え

ない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の

聞こえない人は聞こえ、死者は生き返えり、貧しい人は福音を告げ知らされている」

でした。「聖霊と火のバプテスマ」でもなく、十字架と復活の姿をもって示されたの

でもありません。究極以前の答えにすぎないのです。しかし、ヨハネはこの答えに満

足したに違いありません。イザヤの預言の言葉によってそれがどの時を示しているか

を知っていたからです。


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