12月25日
2016年12月25日

「人間を照らす光として」

イザヤ書 52:7-10 ヨハネによる福音書 1:1-14


 この年のクリスマスに与えられる主の言葉はイザヤ書を通して告げられる解放と回

復の預言とヨハネによる福音書の良く知られたプロローグからです。「いかに美しい

ことか、山々を行きめぐり、よい知らせを告げる者の足は。彼らは平和を告げ、あな

たの神は王となられたとシオンに向けて呼ばわる・・・」バビロンに滅ぼされ恥辱の

捕囚生活を送っているイスラエルの民に神から救いの時が来たことを告げ知らせる預

言者の言葉が、この年のクリスマスを喜ぶわたしたちにも届けられます。興味深いこ

とに、この預言は、解放と回復、平和の時の訪れのよい知らせを告げる者の足はなん

と美しいことかと足の美しさをたたえるのです。山々を踏み越え、町から町へと告げ

回る者の足はほこりにまみれ傷つき破れているはずですが、それでも美しい、と言う

のです。それは、本来足が美しいのではなく、伝える者の福音の美しさ、喜びと救い

のゆえに足さえも美しいものとみなされるということでしょう。日々の暗い見通しが

語られることが多いこの世界にも、すべての民に与えられる大いなる喜び、インマヌ

エルの主が来られたことを告げる教会は、まさに良き訪れを告げる足です。

 わたしたちがこの世界に告げ知らせなければならない福音の中心は何かをヨハネに

よる福音書のプロローグは明らかに示しています。「はじめに言があった。言葉は神

と共にあった。言葉は神であった。」と荘重な書き出しから、「言は肉となってわた

したちの内に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光

であって、恵みと真理に満ちていた」と告げるのです。天地が創られる前から神と共

にあり、この方によってすべてのものが造られた、まさにそのお方が肉となってわた

したちの間に宿られた、と。これは主イエス・キリストの本質は何か、その神秘を明

らかにするために、始めに「言」があった、とキリストの存在を「言」(ロゴス)とし

て示し、主イエスがどのように生まれたか、どのような働きをしたかに先立ってその

存在の本質を根源性と始原性を明らかにします。「〜であった」から{〜になった}

へと展開する「言」の本質と働きに深く注目すると、この謎の言葉のようなプロロー

グに込められている命と光、恵みと真理に触れることができます。


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