4月2日
2017年4月2日

「わたしは復活であり、命である」

エゼキエル書 37:1-14 ヨハネによる福音書 11:1-45


 ヨハネによる福音書にだけ記されているラザロの復活の出来事は主イエスが行われ

た奇跡中の奇跡といえる驚くべき出来事です。死んで葬られ、4日間も墓の中にいた

ラザロに向って「ラザロ出て来なさい」と主イエスが呼ばれると全身を布に覆われた

ラザロが墓から起き上がって出てきた、というのですから。人知を超えたありえない

出来事が起ったとしか言いようがありません。しかし、福音書はこの出来事を主イエ

スの異常な能力を誇示して、主イエスへの信仰を促す目的で記しているのではないよ

うです。この出来事が大きな契機になってユダヤ人の大祭司や長老たちはいよいよ主

イエスを生かしては置けないと決意して、十字架の死への道につながって行ったとい

う経緯も明らかにしています。また、ラザロの復活の事実に至るまでの弟子たちとの

対話、ラザロの姉妹のマルタやマリアとの対話が異常なほど詳しく記されていて、奇

跡そのものについてはただその事実だけが記されているのです。

 瀕死の病床にあるラザロの町ベタニアに行くまでの弟子たちとの対話によって明ら

かにされることは、主イエスがそこに行くということは敵対する人々が渦巻いている

エルサレムへ行くことを意味し、そこでは主イエス御自身の死を覚悟することでもあ

るということです。主イエスは「さあ、ユダヤに行こう」と決然と歩み始めたのに対

して、弟子のトマスは「わたしたちも行って一緒に死のではないか」と覚悟のほどが

語られています。この覚悟は現実に出会うと微塵に砕け散ったことは良く知られてい

る通りです。現実性に見合わない観念性の中でのイエスに従う信仰と覚悟の滑稽な姿

が浮き彫りにされています。同じように、ラザロの死を悲しみ、「主よ、もしあなた

がいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆くマルタに

対して、主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と語ります。これに対してマルタは

「終りの復活の時に復活することは存じております」と答えます。ここでも、マルタ

において復活の信仰は現実の兄弟の死に対して上滑りした空想的・観念的な信仰で現

実の慰めや励ましになっていないことが明らかです。これに対して、主イエスは「わ

たしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信

じる者は、死んでも生きる」と驚くべき言葉が語られます。主イエスにおいて復活は、

いつとも知らぬ終りの出来事ではなく、今、ここでの現実として起こること、他人事

の現実ではなくわたしの出来事、そして私を信じる者に起こる現実であることを確か

に示されるのです。

「わたしは復活であり命である」と語られる主イエスに対してマルタの応答に教えら

れます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信

じております。」ここに人間の信仰の到達点、限界がよく示されているからです。


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